そこにドラマがある

『サラ・ヴォーン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』

これも先日中古屋で見つけた逸品だ。お値段600円。

「やったぜ、掘り出しもんだ!」

とエキサイトしたのも束の間、なんだかちょっと侘びしくもなってしまった。

多少カビ臭くはあるが、帯付きキズなしの美品。

1974年発売の日本製。

50年近く経って、こんなに状態が良いってことは、かなり大切に扱っていたってこと。大事に大事に聴いていたってこと。

その思いを馳せると、いろいろなドラマがあったんじゃないか……なんて想像してしまう。

もしかしたら、持主だった方は既に他界しているかも知れない。遺品の整理をしてた遺族の方が、棄てるのもなんだし、でもレコード重いし、かさばるし、聴けないし、面倒だからとコレクション全てを買い取らされたのかも知れない。

出すとこに出せば、それなりの価値と値打ちがあるはずなのにだ。

それをハイエナのように、やった〜ウシシ〜!と漁るオレってどうなのよ?

なんて妄想してたら切なくなったのだ。

まぁ、ともかくだ。

僕に出来ることは、このレコードを大切に聴くこと。それだけだな。

でも、それは得意だから大丈夫。だから前の持主さん、安心してください。

レコードにはドラマがある。だから大好き。

その曲が流れるとき

先日、ぶらりと入った中古屋でデビッド・ボウイの『レッツ・ダンス』のアナログ盤を発見。

ずっと欲しかったのだが、ネット上ではなかなか可愛らしい値段で取引きされてて手が出せずにいた。

でもそれが、税込で710円で売られてたんだから、そりゃ迷わず飛びつくわけである。

1983年(即ち私が小学六年生のとき)にリリースされた傑作アルバム。
名曲揃いなのだが、中でも冒頭を飾る “モダン・ラヴ” が私の大のお気に入り。
(‘ラブ’ じゃなくて ‘ラヴ’、ここがまたミソなのである)

映画『汚れた血』の劇中でこの曲が流れ出すシーンは、私の中で最も映像と音楽と物語が美しく合わさった瞬間だった。

この場面の完全パクりをドラマ『植物男子ベランダー』で観たときは震えた。この場面でこの曲を持って来る、わかる人にはわかるはず!
って作り手の魂を感じたからだ。

こういう風に作り手の方と繋がったような気がしちゃった瞬間って良いよね。
ちょっと痛い感じもするけどさ、とても良いよね。
で、自分もこの曲をBGMに全力疾走したくなっちゃうのよね。
こういう気持ち、わかるでしょう?

だがしかしだ。
このジャケットについては、ずっとカッコ悪くない?どう?そう感じるのオレだけ?

と思い続けている。良くも悪くも 80’s そのものよね。
どうにも部屋に飾る気にはなれない。
他のデビッド・ボウイのアルバムジャケットは良いのいっぱいあるのにな〜

ま、そこがまたミソなんだけどもね。

話は変わるけども、私の中ではしっかり繋がっている話。

今、並行して読んでいる近田春夫さんの自伝と「レコードは死なず」って本なんだけど、両書からビッシビシ感じるのは、その異常な記憶力だ。

まるで昨日のことのように数十年前の出来事や気持ちを詳細に描写しているからスゴい。
こういう記憶力って物書きにとっては必須なものだと思う。
その点、やはり自分はダメだったなと痛感させられつつ読んでいる。

無茶苦茶楽しく面白く読んでいるのに、なんだかちょっと胸の奥底がチクチクするのは、多分それが原因なんだな、きっと。

では股旅。

カッコマン・ブギ

今朝、息子がお気に入りの服を学校に着て行くのを躊躇っているので理由を訊いてみると

「これを着ていくとカッコつけ〜って友だちにからかわれるんだ」

とのこと。
お洒落をするってことは良い格好になりたいってわけで、友だちの言っていることは正しい。

で、カッコつけることの何が悪いの?

ってところがミソなのだろう。

ヤーイ、カッコマン!

と言われて、違う!違うんだよ!オレはカッコつけてなんかないんだ!
と叫ぶのもウソになるからな。
うむ、ヒジョーに難しい問題だな、コレは。

親として男として、ココをどう裁くべきか……

しばし思案して私は息子にこう告げた。

息子よ、そのからかってくる友人はきっと羨ましいんだよ。
カッコつけてて、カッコが決まっているからさ、それが羨ましいんだよ。

とココまで言って

「ん?どうなのそれ?」って自分でも思ったが、まぁいいだろ。

ともかく、自分はそういうことは言わないようにしようぜって息子に伝えた。
正解はない。

でだ。
この高田渡さんが生前撮りためた時代を切り取った写真を集めた写真擬(もどき)『高田渡の視線の先に』が素晴らしい。
写真集を観て、こんなにも胸がドキドキするのは初めてかも。
何気なく撮りためたものだからなのかな。
これもまた正解はないのである。

僕を作っているもの

今読んでいる『音楽の記憶』(印南敦史著)という本が面白い。

著者が好きな曲たちの、その向こう側にあるもの、その周りの風景と匂いを語ってくれている……って感じ。
なんだそれ?

自分で書いておいて意味わからなくなっているけども、つまりまあなんだかそんな感じの“記憶”と“経験”を軸にした音楽エッセイが集められている本なのです。

サブタイトルの “僕をつくったポップ・ミュージックの話” ってのも気に入りました。
なぜなら、確実に僕もポップ・ミュージックで作られているからである。

でもさっきですね。
近所のレンタルCD屋さんが、中古CDを大放出セールしてたんですけどね。
かなり安いんで、何枚か手に取って、んじゃまあ買いますか……お得だねウフフなんて思うんですけども、そんなのは一瞬で、すぐに気が萎えて「やっぱイイや!」となってしまうっつーね。

そんなのを何度か繰り返してましてね。
なんだかどうにも燃えなくなっている自分がいるんですよ。
ポップ・ミュージックで作られているはずのオレなのに。

今ちょっと僕の体内で音楽が飽和状態なのを感じてます。
何より欲しているのは『本』であり『文章』なんですよ。
なんなんですかね、これ。

だから、音楽そのものより音楽について語っているこの本がグッと来るわけです。

さっき読んだ『宇宙兄弟』の劇中での主人公 南波六太の父ちゃんの言葉「人生は勉強だ」もグイッと入って来ました。
なんなんですかね、これ。

なんだかココ最近、また竹原ピストルが僕の中で来ているんですよ。
それも、あまり聴かなかった『youth』ってアルバムがやけに来ている。
その中でも “ぼくの夢でした” って曲が特に来ている。

説明できない いろいろ様々な事象が、僕を作っているのである。

トンネルを抜けた先には、きっとただトンネルを抜けた先があるだけだよ

今日は定休日。

ってことで芝生を侵食し始めた雑草使徒たちをデストロイしつつ、その合間に敬愛する近田春夫さんの自伝『調子悪くて あたりまえ』を読んでいる。
もちのロンで面白いこと この上なし。

このタイトルの元となったビブラストーンの同名曲『調子悪くて あたりまえ』をバカみたいに何度も何度も聴いていたのって何年前だったっけ?

と思い立って調べてみたら、この曲が収録された魂の傑作アルバム『ENTROPY PRODUCTIONS』が発売されたのは1991年、つまり30年前なわけで、私が華の浪人生(恥ずかしながら二度目)のときだったんだった。
ナウく言えば “どんだけ〜” である。

なんだかな……自分の怠惰さを棚に上げて「調子悪くてあたりまえ〜」なんてホザいていたんじゃないかと、かつての自分に戦慄を覚えてしまう。
我ながら、ホントにホントにしょうもないボンクラだったなと思う。

そういえば、いとうせいこう さんも「一年に何度かこのタイトルを口に出すし、あらゆる友達に捧げたくなる……」なんて言ってて、ME TOO だよ me too!って絶叫したこともあったな。
そう考えると、もしかしたら、オレもそれほどのボンクラでもないのかもな。

ボンクラついでなのだが、新宿の歌舞伎町がなんで、そういう名前になったのかって ずっと知らなくて、でも知らなくても全然気にもならないまま五十歳までノウノウと生きてきちゃったんだけど、今朝それを知ることが出来たんだった。

戦後復興を任された人が「東京をヨーロッパの都市みたいにしちゃうんだぜ!」と息巻いてたんだけど、予算は無いし、まずはガレキどうにかしろって言われて結局当初のプランの十分の一くらいしか出来なくて凹んでいたところに、新宿区長から「銀座と浅草がイイ塩梅で混ざった新しい街をわ作ってよ!」と頼まれて、ぬ!そっちの方が面白そうだぜ!ってなっちゃって、それで作ったのが新宿。

歌舞伎座も作っちゃうよ〜と燃えてたんだけど、GHQにダメって言われて、その名前だけが残ったんだそうだ。

子供のころから何度も何度も行っていた歌舞伎町。
うすらぼんやりと歌舞伎って感じの派手さと猥雑さが混じり合っているから、この名前がついたんだろうな〜って思ってたけど、全然違ってた。

今まで華麗にスルーし過ぎたな。
きっと身近にもっともっと面白いことがたくさんあったんだろうな。これからは、イチイチ立ち止まってみるのも良いかもね。

って今さっき、所沢市三ヶ島のボンクラは思い立ったのさ。
よっしゃ、もっともっと学ぼう!