それはまだ死んでいない

“サブカルは死んだ。パンクも死んだ……”

その帯に書かれた衝撃的な文言を見て、これは読まなければならないなとゲットしてみました。

その本のタイトルは『オフィシャル・サブカルオヤジ・ハンドブック』
著者である佐藤誠二朗さんは私より二つ歳上で、私がかつて貪るように読み漁っていた雑誌『宝島』『smart』の編集者だっつーんだからアガる。

アガる?何が?

もちろんテンションがです。

あの日あの頃、我々の世代のボンクラたちがどうにも拗らせたまま、来てしまったアレやコレやのことが書いてあるに違いないと勝手に期待しているのです。

サブカルもパンクも死んでないと思い込みながらも、心の奥底では「やっぱり死んじゃった?だよね」なんて思っているのを見透かされたような恥ずかしさと清々しさがあるわけです。

まぁ何しろボンクラだったなと我ながら思うのである。
こういう本が出てくることによって、あのしょうもなかったあの頃が総括されるのでは……とちょっとだけ期待しているのです。

しょうもないボンクラ……自虐的に響いているかも知れないけども、それがなかなか誇り高きものだったりするのよね。

五十路突入前にイイ本に出会えました。
ラッキーだな。

なんか笑われるかもだけど、僕にとってこの五十代になるってのは、とってもデカいことでして。
三十代、四十代になったときと比べものにならないくらいなんですよ。

なんでだろ……

全然答えが出てこないです。
でも、こういうのって答えが出ない方が、本当なんだろうなと思うのです。
でも答えを探す。
答えなんかなくても探す。大事なのは「探すこと」なんですよね。

あ、でもサブカルもパンクも死んでないですよ。
これはホント。

レコードは死なず

今、読んでいる本が猛烈に面白いのです。

『レコードは死なず』(エリック・スピッツネイゲル著)。
そして帯にはこんな文言が。

《若き日パンクに心酔した僕は、大手の雑誌で著名人とのインタビューなどもこなしているが、収入はまるっきり不安定。
毎月綱渡りしながら妻と交代で愛息の面倒をみる日々だ。
何を失くし、どうやってここまできたのかもすでによくわからなくなっている。
僕の常軌を逸した究極のレコード探しがはじまった……》

とあるんだから読まずにはいられないのです。
コレってもしかしてオレのことじゃ?

と思ってしまうのもしょうがない。
これはもう激しい痛みを伴う共感の嵐が待っているに違いないと確信して読み進めているのです。

で、この本を紹介する日記用にと写真を撮ったわけなのだが、今気づきましたた。
これ、やっぱり自分も「LONDON CALLING」を持つべきでしたよね?

最高にカッコイイ大好きなアルバムだし、これを扉絵に持ってくる気持ちがもの凄くわかります。
しかも、装画は よしもとよしとも さんなのです。
全てがナイスチョイス。
もはや共感しかありませんよ。
共感カタルシスだ。
(よしもとさんって、あの『B・B』の作者 石渡治さんの実弟なのよね。激アツ)

だけどもだけど。
私が手に持っているのは Benny Sings ……。
この辺りの詰めの甘さが “タカサキテツヘー” だなと痛み感じるわけです。
私はいつも肝心なところで、しょうもないカッコツケをしやがるのだ。
またやっちまった。
またクールポコだ。

でも、これもまた良いアルバムです。
クリクリパーマの Benny Sings を見て、よしまたオレも髪を伸ばしてカーリーヘアにしようと思いましたし。
昨日、久々に At The Drive In のライブ動画を観て、私のアフロヘア熱が再燃し始めたところでのこのグッドタイミング。
これはもう啓示だな。
よしよし。

レコードは死なず……

その通りだよ。

さてと今日明日は店休日。
全力で積極的に休むとしよう。

春に

息子が大事に飼っている ヒガシニホントカゲ が、何やらそわそわしだしたのを見て、いよいよ春来来だなと思うのである。
昨年の今頃、庭で捕らえたから、もう一年になるのか。
あの狭い水槽でよく冬を越えたものだ。
五、六年は生きるらしいが、さすがにそれまで飼いはしないだろう。
急に「もういいや」って逃すのだろうな。
その日は多分近い、そんな気がする。

昼日中は陽当たりの良い場所に出して、日光浴をさせている。
何やら嬉しそうに見えるのは気のせいか、気のせいだろう。

ヒガシニホントカゲ 二匹と カナヘビ が五匹ほどいたはずなのだが、カナヘビ の姿が見えない。
死んだのではない。
食べられたのではない。
多分、ヤツらは逃げたのだ。

ヒガシニホントカゲ たちには、ちゃんとトカボンドとイカボンドという名前がある。
息子に名前の由来を訊いたが、秘密だそうだ。
愛猫 “スナスケ” の名付け主も息子。
なかなかのネーミングセンスの持ち主だと思う。

話は圧倒的に変わる。

『チボー家の人々』という本がある。
幼少時から、ずっと何度も何度も父親に「読むとイイ」と薦められてきた本だ。
思い返してみると、父に「本を読みなさい」とはしょっちゅう言われていたのだが「これを読め」と作品名を出して薦められたのは、この一冊だけだ。

それから四十年近くが過ぎ、私はいまだにこの本を手にとっていない。
なんだか、読めと言われて素直に読めない自分がいたからだ。
自分でも不思議なくらい、頑なに読むことを拒否し続けて来た。
ホントなんでだろう……

で、今朝いきなり「ちょっと読んでみるか!」と思い立ったんだった。
調べてみたら、全十三巻で、作者であるロジェ・マルタン・デュ・ガールをノーベル文学賞に導いた作品なのだそうだ。
あれだけ父に薦められていたのに、私はその作品の大まかな内容も、作者の名前も知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
別に反抗していたわけではない。
全てが、ただ何となくだ。
急に読もうと思ったのも、ただただ何となくだ。

父は、なぜこの本を私に薦めたのだろう。
父が読んだのは、青春期の頃ぐらいなのかな。
あまり多くを語らない父だったので、いまだに私にとって父はミステリアスな存在。
でも、この本を読めば父が見えてくるかも知れない。
私の親でも何でもなかった頃の、ひとりの青年だった父を、ちょっとだけ知られるかも……なんて妄想爆発させている。

私は息子に何を薦めるだろうか。
このままだといっぱい薦め過ぎるに違いないだろうな。
こんなんだから軽薄なのである。
ちょっとは重厚さとか渋さを身に付けたいと一応願ってはいる。
そのためにはどうすればいいのか……

う〜ん、わからん。

あれから十年経ちました。
何か言葉をと思ってはいるのだが、何も出てこない。

でもまあ、これでいいのだ。

スイッチが入る瞬間

ついつい息子が作ったマスクをかぶりたくなってしまうのである。
なんだか “入る” んですよ。

入る?どこに?

と訊かれたら、ちゃんと答えられないんですが、何かしらの作用があって胸がドキドキするんです。

なんなんでしょうね、これ。
祭事と仮面との蜜月関係も、つまりそういうことなんだろうなぁ……
としみじみ感じ入るのです。

息子は、いつも何かを欲してます。
次から次へとアイディアが浮かぶようで、あれも欲しい これも欲しい もっともっと欲しいってのが通常モード。
エブリデイ、あれもしたい これもしたい もっともっとしたいなパンク少年です。

で、でもコレってどうなのよ?
とたまあに不安タスティックな気持ちがチラリと湧いてくるのですが、本を読んでたら、こんなことが書いてありました。

『子供が「あれが欲しい。これがしたい」と言ってくるのは、我が儘や反抗も含めて、とてもよいことです。
それが強いのは生きる意欲・パワーが強いということです。

親にとっては育てにくくて大変ですが、そういう子ほど後々活躍します。
逆に、子供が自己主張できない親子関係は心配です。

・決めたルールは絶対に守らせる

・我が儘や反抗は許さない

・子供の要求には応じず交渉の余地がない

こういう親だと、子供は
「自分は何を言ってもムダ」と感じます。

それは人生に対する無力感となり「夢や願いを持ってもムダ」と感じるようになります。
大人しくて育てやすいサイレントチルドレンを望まないように……』

こういう言葉、考え方を自分の都合の良いように解釈しちゃうのはデンジャラス。
あくまで “参考に” って距離感を保つのがモアベターなわけで、でもちょっとだけ不安タスティックは遠のきました。

まぁ、何しろ正解がない。

それがわかっていて、でも答えを追い求める日々なのであります。
これは子育てに限ったことではなくて。

というわけで、またマスクかぶってみます。
次はどんなマスク作ってくれるのかな〜

天才とは

幾人もの方々から同時多発的に勧められていたマンガ「左ききのエレン」を満を持して読み始めてみた。

既刊十五巻までの十四巻まで読んでみての感想というか印象は「面白い!」だけどもだけど……うーむ、好きじゃない!って感じか。

天才になれなかったすべての人へ……

というのが、この作品のテーマであるようだ。

この “天才” の作中での描かれ方が、なんだかちょっと僕の好みではなかったみたい。この作品で描かれている “天才” たちは、もう出来上がっているのよね。

どうなって、どうやってそうなったのかっつプロセスが描かれていない。ナチュラルボーン天才なのね。

“天才” ってそんなもんじゃんって言ってしまえば、そうなんだろうけども、なんどかちょっとね「でも、そうじゃないよね……」って思いを僕は抱いてずっと来ちゃったのよね。思春期の頃くらいからずっと。んで、拗らしちゃった感じで。

だから自分的にしっくり来るのは同じマンガである「BLUE GIANT」の方でね。「BLUE GIANT」では主人公は光るものを持っている。でも、それは先天的なものではなく、主人公自身が培って来たもので、放っておいたらすぐになくなるような儚いもので、だから、主人公はそれを輝かせるために、気が遠くなるような反復練習をする。(テナーサックスね)で、それが無意識下で繋がる瞬間を作れるようになっていく……

なんて書いてて、僕自身、意味がわからなくなって来ちゃったけども、まぁつまりそういうことなのだ。

僕の中では初めから“天才” って物語の展開がスッと入っていかないのだ。

きっと“天才”ってものの考え方が違うんだろう。

だからといって、つまらないマンガではなく充分面白い。でも僕は好きじゃないな〜って、そういうこと。

三月になって、鈴木英人さんのカレンダーが二枚目になった。一枚目を捨てるのも忍びないので、キレイに切り取って保管しておこうと思う。

こういう気持ちを大切にしなくちゃなと思う。

さてと。仕事すんべ。