コレが慣れってヤツなのか

おかしなもので、一週間も経つと息子の学校が休みなのが普通になってくる。

これが慣れってヤツなのか。少しは慣れてくれないと困るが、普通じゃなかった物事がいつの間にか普通になるってちょっと怖くもある。頭の良い悪いヤツらが人間のこういう習性をうまく利用したりしませんように。

横浜市立大学が、新型コロナ患者の血清からウイルス抗体検出に成功したそうで、それがどれだけ凄いことなのか全然ピンと来ないが、これは絶対凄いことに違いない。

人ってスゴい。どうにかしようと考えて頑張って、そしていつしかどうにかしてしまうのだもの。これが弛まない努力ってヤツなのか。人類 vs ウイルス。このカオスが、早くに終息しますように。もちろん、人類の圧倒的勝利で。

なんだかちょっとさ、ギスギスしているじゃない。怒りの矛先をどこに向ければイイのかわからないし、んじゃ、とりあえずコレに向けとくか〜みたいなのが、あるじゃない。そういうのが、早くなくなりますように。

とにかく笑えれば、最後に笑えれば……ですよね。

そこから創作しよう

ぼんやりとバスキアがどうバスキアになって行ったかを追ったドキュメントを観ていて「へ〜ほ〜」と感心したのが、彼が何気なく書いたアルファベットの格好良さだった。

誰かが「字を書く行為、それがすでに描くことなのだ……」なんてことを言っていたが、これこそがまさにそれなんだなと思った。振り返って、自分が書いている「字」を思うと、それはもう酷い。デザインの一欠片もないことを痛感する。

モノを作る人、何かを表現する人(どちらも一流のね)は、常日頃の何気ないことも「創作」しているのだろうなと嘆息したんだった。

息子が言うには、どうやら言葉には「チクチク言葉」と「ふわふわ言葉」というのがあるらしい。その音イメージ通り、「チクチク言葉」は良くない言葉で「ふわふわ言葉」はその逆のようだ。

私が何気なく発した言葉が「チクチク言葉」だったりすると、即座に注意される。で「どんな言葉がチクチク言葉なの?」と訊いてみたら、なるほどそれは確かに心がチクチクさせられるなと感心させられた。と、同時に「出来る限り使わないようにしたいもんだぜ」と思った。と、さらに同時に「だからと言って『ふわふわ言葉』ばかりの世の中になっても、それはそれでなんだか居心地悪いぜ」とも思った。

さて。昨今の世の中を俯瞰で眺めてみると、気をつけないとすぐに「チクチク言葉」に埋め尽くされてしまいそうな空気感がある。気を抜いたらチラリと湧いて来やがる。

息子に「ほらまたチクチク言葉だよ!」と注意されないよう気をつけたい。

発する言葉も「創作」しよう。

ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ

近頃なんだか窮屈な空気が蔓延してきましたね。こんなとき、どう立ち振る舞うべきか……考えさせられます。
そしたら名優 佐藤二朗さんが、こんなことを言ってました。
『コンプラ遵守大事。ただ窮屈の世つまらん。俺みたいなのが阿呆のフリして、てか本当に阿呆なんだが、窮屈に少し悪戯をする。うっすらそこに風穴開ける。それを僕は「表現」と呼んでます……』

これだ!と思いました。やはり、こういうとき必要なのはユーモア。ユーモアは忘れないようにしたい。

そして、私の仕事も「表現する」ことだと私は信じていますから、だから少し悪戯をして、うっすら風穴を開けられたらなと思います。具体的に何をすれば良いのか全然見当つきませんが、そういう心がけでいたいんだぜってことです。

こんな状況なので、何かとネガティブになりがちですが、そんな中でポジティブなものを見つけていきたいですね。ほらだって、私の店の基本コンセプトは “GOOD MUSIC & POSITIVE VIBRATION” じゃないですか。コンセプトっつーのは、こんな時こそ寄り添わないとなと思うわけです。

とにかく笑えれば、最後に笑えれば……ですよ。

近頃やけに、たま の『さよなら人類』が頭の中でグルグルグルグル。

♪今日人類がはじめて 木星についたよピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ♪

うむ「表現」だな、まさに。

Laugh now , but one day we’ll be in change

年始のこと。
ふと立ち寄った画材店で、BANKSY の作品ポスターいくつかを額装したものを発見。
こりゃイイやと “Laugh Now” を勢いで購入した。
(と言っても信じられないぐらい格安ですが)

この猿が
『Laugh now , but one day we’ll be in change(今は笑え、しかし、いつかは我々が取って代わる)』
というメッセージが書かれたボードを首から下げている作品。

これが胸にプリントされたTシャツを、十五年前、DOODLIN’ BARBER SHOP をオープンした頃に買ったんだった。
そのメッセージと共に BANKSY というアーティストの存在にグッと来るものを感じたからだ。
なので、今の店の壁に、この作品が掲げられていることに一人静かに感慨に耽っている。

いっとき、なんだか BANKSY 作品を店に飾るってどうなのよそれ?と斜に構えたこともあったが、何周もグルグルグルグル廻って、今なんだかとてもイイ。
以前にも増して、とても胸に迫るものがある。
並行して、バスキア作品にも胸をまた熱くしている。
グルーっと廻ってまた燃えてくる……
これってなんなんだろう。

そう言えば、いっとき、タランティーノ作品に対しても非定的な態度をとっていたこともあった。
今となっては、とんでもなく恥ずかしい。
その気持ちの奥底には、憧れとか嫉妬とかいろいろあったんだろうけども、タランティーノに嫉妬している自分に対してドロップキックを喰らわせたい。
お前、いったい何様なんだ?と。
笑わせるぜと。

こういうのって多分歳を喰った証なのだろう。
四十代半ばぐらいから、なんだかちょっと分別つき始めちゃっているのを感じる。
諦めとかでは全然なくて。
なんだか、噛みつくことがなくなったな〜って。
でも、それを失くしたとも思ってないし、若い頃は良かったよね〜なんて思いは皆無だし、ただただ恥ずかしい思いに満たされているばかりなんだけど、なんだかこういうのイイよね。
ふふふ。

今またグルーっと廻って再びイイもの。
そういうものが他にもないか探してみよう。
そして、もし見つけられたら、それを大事にしよう。
次また、自分が元気なうちにグルーっと廻って来てくれるか、どうかわからないからね。
いや多分、来ないだろうからさ。

再びのものに限らず、ともかくグッと来たものは大切にしていこう。
自分の「グッと」を信じよう。

着眼点が変わってきた

つい今さっき。

近頃やけに数字にこだわる早起き息子と話していたら、DOODLIN’ BARBER SHOP は何年からやっているのかって訊かれて「今年で16年になるから2004年からだね」と答えたのだが、あらためて “もうそんなに経つのか……” としみじみするのを通り越して頭がクラクラしてしまった。

なんだか突然急遽いきなり感慨深い。そうか、もうそんなにか。あの頃生まれたコたちが、もう中学卒業するってことか。光陰矢の如し過ぎるぜ、全く。

今日は朝から、昨夜録画した『映像研には手を出すな』を観て涙してしまった。何がそう私の涙を誘うのかわからんのだが、毎回泣かされている。
アニメーション制作に青春の全てを捧げる三人の女子高生を描いた物語。二人の天才とそれを支えるコ。その支えるコは役割的に言えば、プロデューサーってところか。そのコが何故二人の天才にそこまで肩入れするのかは、まだ明かされていないのだが、そのコがいなければ確実に二人の天才は結び付かず、そして作品を世に出すこともできず、埋もれてしまうだろう。

そうなのだ。こういう、天才を見つけ売り出す能力のある人がいるからこそ、稀有な才能が世に出ることが出来るのだ。そう言った意味では、このプロデューサー的役割を担っている彼女も天才と言えるのかも知れない。

年を重ねたから、こういう役割が重要なのよねフフフと気づけた。段取り、これ重要。天才的な物づくりが出来ちゃう人って、これがホント苦手。もう笑っちゃうぐらい苦手。もちろん、どちらも出来ちゃう人もいるけども、それは稀。

なんだかな。いろいろなことへの着眼点が変わってきた気がする。面白いとこ、気になるとこ、グッとくるとこ。これが変わってきた。でも、それがいい感じ。

さてと。今日も一日頑張るべ。