夏のぬけがら

先日、せっせと裏庭の草刈りをしてたら大きなヒキガエルと遭遇しまして。
これは息子に見せてやらねばと捕獲して見せたら案の定大興奮。

「飼いたい!飼いたい!」

とシャウトし始めたのですが、ちょっと落ち着きなさい息子よ。
うちには今、ヒキガエルを飼育出来るようなケースはないじゃないか。これはもう逃してあげようよと言うと

「大丈夫!クワガタを入れてる飼育ケースを使えばいい!」

などと言い出す始末。
夏の始めに捕まえたノコギリクワガタとコクワガタ十数匹をさっさと逃し、ヒキガエルを迎え入れる準備を始めたのでした。
(正直、私の気持ちは「え〜ウソ〜!」である。
実は結構私が可愛がっていたクワガタちゃんたちだったからです。)

しかし、息子は今まで生き物の世話をちゃんとしたことなどありません。
かつての私と同じくハンティングは大好きだが、ブリーディングはノーサンキューな少年なのである。
ちゃんと面倒見られないだろうし、二、三日観察して、そしたら裏庭に逃してあげよう。
きっと彼は裏庭のヌシだからさ……。
息子は渋々ではあるが、この私の提案を受け入れてくれたのでした。

とは言っても、いざ逃す約束の日になったら、どうせ「イヤダイヤダ!」とゴネるのだろうなと思っていたのですが、超意外に呆気なく逃したのでした。
ヒキガエルのカエちゃん(息子が命名)は、息子が与えたバッタたちを一匹も食べていませんでした。
ダンゴムシやコオロギが良いらしいと調べてはいた息子ですが、暑さや雨を理由に捕獲もしてませんでした。
息子はきっと自分でも「これは飼うのは難しそうだぞ!」と痛感していたのでしょう。

この “痛感する” ってことが物凄い進歩だと思うのです。

そして最後に残ったのはカブトムシ連中。
毎年毎年、飼育箱の中で生涯を終える姿を見ていて、実は少し可哀想だよな〜と思っていた(コクワガタは越冬します)ので、息子に「カブトムシも逃していい?」と訊いてみたら、ちょっと考え込んだ後「うん、いいよ」と言ってくれたのでした。

ヒキガエルと一緒に昆虫たちも全て逃した この数日間。
「夏の終わり」と「息子の成長」を感じたのでした。
朝の空気感と風の匂いも、秋のそれに変わりつつありますね。

息子は今日から二学期開始。
私と妻さんにとっては、静かな日常の再開です。

さてと。晩夏の定番名作アルバムである真島昌利先輩の「夏のぬけがら」でも流しましょうかね。

それでは股旅。

同時に起きる、もしくは遅れて気づく

“Occurring simultaneously or awareness being delayed”

同時に起きる、もしくは遅れて気づく

これはもしや貴方への何かしらのメッセージじゃないかしら……
ってことで妻さんが激写してくれました。

確かに、何故だか心の奥底に響くものがあるので、これはきっとメッセージなのだと思います。
こういう感覚、大事にしたいですね。

遥か遠方より毎度自転車に乗って来てくださるお客さんが、

「DOODLIN’ BARBER SHOP までの道のりを えっちらおっちら 自転車を漕いでいると、子どもの頃の夏休みを思い出すんですよね。
匂いとか、風の感じとか陽射しとか……」

と言ってくれて、これはきっと何かしらの御褒美に違いないぜと思いました。
何だか嬉しかったんです。
こういうのって、理屈じゃないじゃないですか。
でも共有出来る感覚っつーかなんちゅうか本中華。
絶対的な “良い” 感じ。
こういうのは尊いじゃないですか。

お盆をちょっと過ぎたこの頃合。
ケツメイシの『夏の思い出』が、頭の中をエンドレスでグルグル巡るのは何でなんでしょうね。
この頭からずっと同じフレーズが繰り返されることを “イヤーワーム” って言うらしいです。

この現象。
原因はまだ解明されてないそうです。
ある人にとっては、これがとても悩ましい現象だったりするかもですが、私はこの “イヤーワーム” が好きです。
頭から離れね〜!ってニヤニヤしちゃいます。

同時に起きる、もしくは遅れて気づくか……

ともあれ、今日も結構良い感じです。

股旅。

灼熱の中での聖地巡礼

灼熱の日々が続いております。
毎年のようにボヤいてますが、私が子どもの頃の夏はこんな酷暑ではなかったのにな……

最高気温が 32、3℃ 行こうものなら「すわ、こりゃヤバい!」と慌てたものですが、今やそのぐらいでは「ぬ?ちょっと過ごしやすいかも!もしかして?」となっているのだから、これは多分きっと我々が想像している以上に異常事態なのだと思います。

そんなアツアツ酷暑の中。
先日の店休日にほてほてとお台場にあるダイバーシティまで行ってきました。
お目当ては、機動戦士ガンダムのプラモデル 略して “ガンプラ” の聖地『ガンダムベース』です。

私が子どもの頃は、そこら辺にあったプラモデル屋が今や何処にもないというこれまた異常事態なわけでして。
で、じゃあネットで買おうかとなると高くなってるし送料かかるわだし、数少ない模型店に足を運んでもガンプラは完売、これは私が子どもの頃と全く同じで、「おいおい、ふざけんなよ!」状態なわけです。

で、この「ガンダムベース」なのですが、ここはちゃんと定価販売ですし、その品揃えも半端ない。
わざわざこんなところまで来なくちゃならない哀しみは確かにありますが、店内に入った瞬間、そんな思いは霧散しました。
パラダイス……まさにそんな言葉が相応しい夢の空間でしたもの。
はしゃぎ回る息子以上に、51歳ナイスミドルの心の奥底は燃えたぎりましたもの。

私が狙っていたキットが売り切れだったのは「ここでもかよ!」と落ち込みましたが、息子が欲しがっていたガンダムベース限定のHG 1/144 ザク はあったのでヨシヨシでした。

で意気揚々とダイバーシティを出ようとするとドラえもんショップがあったのです。

「寄ってく?」

と息子に訊いたら「ここはいいや」と足速に通り過ぎたのでした。
あんなに好きだったドラえもんなのに、見向きもしないとはな。
知らぬ間に成長しているもんなんだな……
と床屋のオッサンはしみじみしたのでした。

で、ダイバーシティ前の広場にドドンと立つ実物大ユニコーンガンダムの前で平伏し、写真を撮らせていただき、おまけでドラえもんと息子とのツーショット写真も撮って、灼熱の中帰路についたわけです。

私が子どもの頃に拗らせたガンプラへの思い。
息子の成長。
いろんな思いが錯綜した一日でございました。

涼しくなったら、また来たいなと思います。

それでは股旅。

それはもしかしたら何かしらのメッセージ

お客さんから『まんが道』(藤子不二雄 A 著)全巻をお借りしました。
前々からずっと「読みたい!」と思っていましたので、これは嬉しい。

さてと、それじゃあ早速読みましょうかね!
と第一巻を手に取ろうとしますと、おやおや?
何やら違う本が紛れ込んでいるではありませんか。

『赤めだか』(立川談春 著)

立川談志さんの弟子であられる談春さんのエッセイ集じゃないですか!
読みたい!とまでは思っていませんでしたが、気になる一冊です。

これはひょっとして「読むべし!」というメッセージなのでしょうか。
それとも、たまたま間違えで入ってたものなのですかね。

すぐに答え合わせしようかと、貸してくれたお客さんに連絡をしようかと思いましたが、イヤイヤこれはそんな野暮なことはせずにサラリと読破しときましょうかね。

なんかね。
この『赤めだか』には、今の自分に必要なフレーズが収められているような、そんな素敵な予感がしてしょうがないです。
こういう切っ掛け、プライスレス。
『まんが道』は言わずもがなです。

先週末、苗場で行われたフジロックフェスティバルにですね。
PUNPEE というヒップホップ アーティストが出演したのですが、そのステージで「Hero」って曲をやったそうで、私も好きな曲なのですが、その「Hero」の歌詞というかリリックというか、その中に

“あの芸術家たちも あの戦争に行ってたら死んでたかも
あの戦争の犠牲者の中にも 未来の芸術家が何人居たろう?”

ってフレーズがあって、そこが今のこの時代、時世にやけに響くよな〜って呟いている人をネットで見かけましてね。

あ、それ凄くわかる。わかっちゃうよ!
ととても共感したのでした。

戦争の対義語って「平和」だったり「対話」だったりするのでしょうけども、僕的には「芸術」ってのも ちょっとあるかもなと思ったのでした。

おまえ言っていること無茶苦茶だぜ!

と嘲笑されるでしょうけども、なんかさ、芸術の力というかね。
そういうのを信じたいなと思う今日この頃なのです。

股旅。

だから、僕はダメなんです。

しかし、まあ何ですな。

何度やっても G-SHOCK の時刻合わせってのは覚えられないもんですな。

それとネクタイ。
年に数回着用するかどうかって自由業の身なもんで、これもなかなか覚えられない。

理由はわかっているんです。
そもそも覚えようって気が微塵もない。
ま、検索すれば何とかなるっしょ!
って感じだし、実際何とかなってしまう。

こうなると人、いや、床屋のオッサン五十一歳ナイスミドルは学ぼうとしないわけです。
だから、僕はダメなんです。

やっと納品された『FUNK SOUL BARBER』ティーシャーツ。
(大変お待たせしちゃいました。まだ納品されてない色、サイズもありますが、それは来月末にはどうにかって感じです)

僕的には至極 “会心の出来” なのです。
洒落も効いてるし、ユーモア満点だし、いい塩梅の力の抜け具合だしで、そうつまり最&高なわけです。

でも、これを着て歩いたからと言って、誰もが振り返り「あれはなんだ?欲しいぞ!ふぁふぁーん!」となるわけでは全くなくて、それはまあしょうがないことだとは分かっているのですが、こんな良いのにホワイ?と本気で思ったりもしてます。

こんなこと書いてると後ろ指刺されてクスクス嘲笑されそうですが、良いんです。
五十路ともなるとさらに磨き込まれるんですよ、鈍感力ってヤツが。
どこからか何かがやってきて「それでいいじゃん」と肩を叩いてくれるんです。
これもまた幸福の一つの形なのです。