帽子LOVE

私は帽子が好きだ。もうかれこれ三十年くらいの“帽子好き好き歴”になる。なかなかのベテランであると自負している。

アレは十九歳。立川の予備校に一緒に通っていたヤマネくんが、フィラデルフィア・フィリーズのキャップを愛用してて、それを真似してみようと思ったのが始まりだ。ヤマネくんは、彼が大好きだったPublic Enemyという HIPHOP グループのメンバー ”Chuck D” の影響で、フィリーズのキャップをかぶっていた。

私も Public Enemy をヤマネくんの影響でハマっていたので「それなら同じ “P” をあしらったピッツバーグ・パイレーツのキャップがイイよ!」とヤマネくんに勧められ、それじゃあと福生の16号沿いの店に予備校帰りに愛車のベスパでヤマネくんと二人乗りして探しに行ったんだった。ブラックにイエローの刺繍で “P” と刻まれたキャップ。アレはある意味私の青春の象徴のような気がする。

このキャップを数年愛用した後、キャスケットやらポークパイやらタムやら、いろいろな形の帽子を楽しむようになり今に至る。

ザッと三十年。これはもう私のトレードマークは帽子ってことにしても誰も文句は言わないんじゃないかな〜とぼんやり思う。

しかし困ったことに、帽子ってのは好きになってしまうと何個も欲しくなってしまうのだ。他者からしたら、何も変わらず全て同じ印象を受けるかも知れないが、私は気分やシチュエーションで、ちゃんとかぶり分けている。本人的には、全部が全然違うのだ。まさしく、みんな違ってみんないい……これなのである。

で、もひとつ困るのが、自分的に一番帽子がジャストフィットする髪型が “丸刈り” なことである。そもそも職業的に帽子かぶってばかりってどうなのよ?って感じなのに、さらに自身の髪型がマルガリータって、コレってまさに本末転倒ってやつなんじゃ?まさか?ってドキドキしてしまう。

そして今朝。ずっと某有名店に自分の職業を隠し、何気なくカットしに行こうと伸ばしていた髪をバッサリマルガリータにしてしまった。これはあれだ。今朝読んだ漫画『宇宙兄弟』のせいだ。この漫画のゲキ渋脇役である吾妻滝生の坊主頭がカッコイイせいなのだ。髪型だけじゃなく人間的にも魅力的なのよね、吾妻さん。

とまあ、こんなふうに日々突発的感情の移ろいに任せて生きている。これが案外悪くない。

しかし、今度こそは髪を伸ばして、あの某有名店に行ってみせるぞ。

股旅。

美貌の青空

唐突だが私は宇宙人の存在を信じている。だが、我々地球人が宇宙人と接触できる確率はとても低い。アフリカに生息しているアリが、日本にいるアリと遭遇することが、まずないことをイメージしてみるとしっくりくる。宇宙人は何処かにきっといるに違いない。ただ我々人類が宇宙人と出会うことはまずないだろう。


さっき、目の前を走っているクルマに緑色のカッコイイ物体がくっついているのを発見。オオカマキリだった。ヤツは必死にしがみついていた。信号待ちの度に、思わずクルマを降りて捕獲しに行こうと思ったがヤメた。こう見えて私も思慮深い大人であるつもりだ。そんなことをしたら、通報されるかも知れないからね。

でも

「ほらオオカマキリ!これを採りたかったんすよ!ふぁふぁーん!」

と抜群の笑顔で言えば、ひょっとしたら運転者の方は「あ!そうなんだ!熱い!熱いよそれ!」
って応えてくれるかも知れない。

そうなんだよ。何がどうなるかなんて、誰も確実にはわからないのさ。

あのオオカマキリ。遥か遠くまで連れて行かれてしまって混乱しているだろうな。普通に生まれ育っていたら、絶対移動できない距離を運ばれてしまったわけだから。あのクルマは、カマキリからすれば、人間を人知れずさらうUFOみたいなもので、人間は宇宙人みたいなもんだ。

また唐突だが、私は神様の存在も信じている。特定の宗教を信仰しているとか、そういうのは全くないのだが「きっといるよね、神様!」とは思っている。つい先日、妻さんが録画していた世界各地の「巨樹」を巡るドキュメンタリーを観ているとき、突然グワーンと「神様いるよ!」と思ったんだった。

だが、神様は人間なんて相手にしてない、眼中にもない、もはや存在すら認識してないんだと思う。勝手にコッチが感じているだけなのだ。そういう存在が確かにあることを。

巨樹を観てたら、あまりに人間がちっぽけに感じちゃって、多分きっとそのせいで、こんな思いに至ったのだろう。我ながら気持ち悪い物言いになったが、自分的には大いなる一歩を踏み出した感が強い。

神様いるぜ!

こう思えるって、ある意味「強さ」になるってことに気づけたからだ。

庭に植えた白樺がグングン大きく育っている。お客さんで気づく方々も多いから、ちゃんとシンボルツリーとしての役割も果たせているのかな。

人でも植物でも、その成長を感じられるって幸福なことだと思う。些細な場所に宇宙がある。目には見えないが神がいる。何もしてくれないが、そこにいる。

ロックンロール。

明日はどっちだ

今朝。ぼんやりテレビを眺めていたら、インドネシアのラマレラ島の獲物をモリ一本で仕留める伝統漁を元ボクシング世界チャンプの内藤大助さんが挑戦するって番組をやっていた。

内藤さんが、島の長老に、なぜ今もまだ伝統漁にこだわるのか、もっと楽な方法があるのでは?と尋ねると長老がこう言っていた。

かつて島の貧しさを憂慮した国連が、捕鯨船を与えてくれたことがある。そしたら一日に三頭ものクジラを仕留めることが出来た。歓喜した。だがしかし捕鯨船に乗る連中は必要以上のクジラを獲り始めた。そんなに獲るとクジラがいなくなると忠告しても聞かなかった。しまいには、彼らは獲物を皆で分かち合うこともしなくなり、自分たちで独り占めするようになった……

どこかで聞いたことがあるような話に聞こえたのはなぜだろうなぜかしら。捕鯨船を与えた国連が悪いのか……それはちょっと違うと思う。これは詰まるところ「教育」なのではないか。

それを使うのは人間なわけで、力と能力を持っていても、それは人間の使い方次第でどうにでもなるわけで、ってことはそういう人間に力を与えちゃいけないわけで、だからそういう人間にならないようにするために必要なもの、それが「教育」なのではないかと。「教育」はもちろん大切だけど、さらにそこで得た知識をどう使うかが重要。正しい使い方が出来ることを、「知識」を「知恵」にまで昇華出来る能力のことを「教養」というのではないかと……

なんてことを考えてたら、頭が痛くなってきた。そういえば子供の頃「頭痛が痛い」なんてことを言ってたな。笑える。

子供といえば、七歳半の我が息子。その息子が今夢中になっている SLIPKNOT ってバンド。あまり小学生が聴かないようなラウドでヘビーでエキサイティングな音を奏でる、全員がマスクをかぶっている “闇のサーカス集団” と例えられるバンドだ。

一応言っておくが、これは私からの影響ではない。息子が自分で見つけ出したのだ。正直言うと、影響受けてみろ〜と今までいろいろな音楽を聴かせてみた。だがしかし、どれも息子は華麗にスルー。全力で空振りばかりだったところでの、いきなりの全く予想だにしてなかった、まさかの SLIPKNOT 。これには驚かされた

息子はその後もハートを震わせまくる音を次々見つけ出し、
「これカッコいいな!」
と自らのATフィールドをグイグイ広げていっている。それはもう痛快なぐらいに。

はてさて次は何に飛びつくのかな。またまた予想外想定外な方向にブッ飛ぶのか。その自由さ加減に惚れ惚れさせられる日々なのだ。

と思いきや、「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」も大好きだし、すぐ泣くし、ワガママだし、甘ったれだし、息子は存分にちゃんと小学二年生でもある。ま、ラウドロックを聴く感性も子供ならではの無垢なものであるんだけどね。理屈じゃないんだよね。それがなんだか羨ましくてね。ホントもう憧れちゃうぜ。

さてと。明日はどっちだ。

そんなロックンロール日和だったんだった

今日は早起きして妻さんと息子と一緒に『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』を観てきた。かなり面白かった。そして泣けた。

僕が一番泣けた場面が、妻曰く笑える場面だったそうで、夫婦間のこのズレが面白いんだなと思った。「何もないぜ埼玉!」と揶揄されることが多い我が出身県の『埼玉』ではあるが、この「クレヨンしんちゃん」の舞台なのだから、それでイイじゃない!誇りじゃない!と胸を張るとしよう。

それから本屋に行って息子用の『コロコロコミック』と自分用の『スケッチー』1〜3巻をゲット。この『スケッチー』は何人かのお客さん&友人に薦められたので読むことにした。ググッと来る何かがあることを期待している。

それから楽器屋に行って、息子にドラムを叩かせてみた。近頃、ラウドロックに御執心の息子がドラムをやりたいと言い出したからだ。ドラム教室のパンフをいただいたのだが、習うんじゃなくて自分でやりたいと言う。僕としては、やはり最初の最初は指導してもらったほうがイイんじゃないかと思うのだが、こういうことに正解はないので、手探りで行くとする。親バカなので、(甚だ適当ではあるが)ドラムを叩いている息子の姿を見て「ちょっと様になっているじゃない!」と思ってしまった。痛いぜオレ。

帰り道、カーステレオから流れているリンキン・パークに体を揺らす息子。それを見て妻さんが「今からこういうの聴いてたら、二十歳ぐらいになったらゴンチチとか聴くようになるんじゃない」と言ってて、それがなんだかツボだった。

一度帰宅し、それから川越の “レレレノレコード” まで『The Secret LIfe Of VIDEOTAPEMUSIC』のアナログ盤を買いに行った。行きがけに “手打うどん 長谷沼” を通り、店主である友人ハセドンの後ろ姿を確認。帰りにちょいと挨拶出来たら嬉しいなと思ったのだが、全然無理。帰り際の渋滞がハンパなかった。行きはスムースだったんだけどな。川越すげえな。

まあ、そんなロックンロール日和だったんだった。

店と名盤と私

こんな音楽が流れてて、それがさりげなくキマッているような、そんな店に出来たらイイな……

なんて開店当初に妄想していたアルバムが三枚ありまして、このラテン・プレイボーイズの1stも、そのうちの一枚なのです。

いつの時代なのか、どこの国なのかわからないような、そんな店にしたいぜ!

なんて鼻息荒く掲げたコンセプトにドンピシャなこのアルバム。
あの頃の、ところ構わず熱くなりまくっていた自分を思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしくて失神しちゃいそうですが、それも“若さ”の強みだよね〜と図々しく開き直ってみることにしました。
開き直り、それが五十路間近である床屋のオッサンの生きる道なのです。

ちなみに、後の二枚はトミー・ゲレロの『ソウルフード・タケリア』とベン・ハーパーの『バーン・トゥ・シャイン』というアルバムで、どちらも今も愛聴してますし、こんな音が似合う店にしたいって思いも燦々と燃え上がっております。
(来月リリース予定のベン・ハーパーの新譜が猛烈に楽しみでもあります)

近頃、この“似合う”って大事だよな〜と痛感させられることが多くなりました。
自分が抱く自分や自分の店のイメージと、他者が抱くイメージ。
これが乖離し過ぎないようにしなくてはな〜とぼんやり思っております。

そのギャップが味!

ってのも、ありっちゃありですが、それももういいかなと。
もう意外性はいいかなと。
いつの間にか二十代、三十代の頃とは真逆の考え方に行き着きました。
若かりし頃の痛々しさも全部抱きしめて。
面白いもんです。

股旅。