麦わら帽子は もう消えた

一日から息子の短い夏休みが始まった。こんな状況だから、ドドンと遠出も出来ないしってことでキャンプに行ってきた。

キャンプと行っても、泊まりはトレーラーハウスだし、専用のBBQ用デッキも横についているし、食材も用意してくれるしで、それはもう楽チンなのだ。

出かける準備やら片付けやら洗濯やら、そのほとんどの負担が妻さんにかかるわけで、少しでものんびりしてくれればという思惑からのナイスチョイスなわけだ。

日頃、イージーなものに対して厳しくチャージしがちな自分だが、こういうのはイージーな方がイイぜ。この思いは年を重ねるごとに増している。ベリーイージー、イイぜ。

それでも「これでイイのかな」って思いが片隅にちょびっとはある。七歳の少年には、もっともっとアドベンチャーを味合わせた方がイイのかなって思いがあるのだ。

しかし、そんな思いは杞憂だったりする。キャンプ場に行く前に、ニジマスの釣り堀に行ったのだが、“釣ったサカナは全部買い取りね!”ってルールなので、食べ切れないし持ち帰れないしってことで、たった二匹で終わりにさせたのだが、息子は大満足だったようだ。

大人的には物足りないかなと思うことも、その全てが息子には初体験なわけで、自分でニジマスを釣ったということは息子にとっては震えるほどの大事件なのだ。しかも、それを塩焼きにしてくれて、それがまた格別に美味いわけである。「また行こう!」そう約束した。

少年時代、過ごした時間はことさら濃密だった。それが段々薄れていきながら大人になっていく。多分、息子は私の四倍ぐらい濃密な時間を過ごしているのだろう。小学校のころ、二時間目と三時間目の授業の間に「業間」という休み時間があった。それは、たったの二十分ぐらいだったのだが、いろんな遊びが出来たのを覚えている。

今、二十分の休憩を与えられても、きっと何もしないし何も出来ないだろう。ボーッとしているうちに終わってしまうだろう。四倍の八十分を与えられたら、やっと何かをしようって思いが生まれるな。

早起きして虫捕りに行くことも、息子にとっては大冒険。ちょっとした散歩もスペクタクル。息子が過ごす一日は、私が過ごす四日分ぐらいディープなのだろう。そう考えると、ちょっと気も楽になる。大人が考える「濃密時間」を用意することはないのだ。子どもたちは勝手に物凄い吸収しているのだ。多分。

「夏休み」と云えば、中学時代に文化祭でフォークソングクラブのYくんが熱唱した吉田拓郎の「夏休み」を思い出す。それがもうアンビリーバブルでドリーミンな歌唱で、体育館内がざわついたのを覚えている。あれは事件だった。

今さっき、初めて原曲を聴いたのだが、Yくんのそれとは違った曲だった。でもサビの部分は同じだった。
♪夏や〜す〜み〜♪
Yくんのシャウトが、耳の奥でこだまする。あれからずっと、毎夏盛夏が訪れたのを実感する度にYくんの絶唱が脳内再生される。ある意味、私の中で一番の夏のテーマ曲なのかもしんまい。

さてと。たった二週間ちょっとの息子の夏休み。一緒に楽しく過ごせたらと思う。日課の親子げんかも忘れずに。

にしても、息子よ。カメラを向けると変顔ばかりするが、それも面白いけど、たまにはちゃんと撮らせておくれ。照れくさいのはわかるけど。それもきっと成長なのだろうけど。

心で言葉が立つ日に心が宿る

七月末だというのに、この涼しさ。
近々梅雨明けだという噂もあるが、夏が来ても、あっちゅう間に過ぎ去ってしまいますね。
猛暑も嫌だが、ココまで夏を感じられないのは、もっと嫌だ。
なんかこう、ベリー最高にイイ塩梅にはいかないものなんですかね。
ちょうどいい夏って味わったことないかもしんまい。

ところで七月からレジ袋が有料になりましたね。
たかだか数円とはいえバカに出来ないぜとエコバッグを用意したのですが、これがどうにも忘れてきてしまう。
コレもアレですな。
日々心がけて常時携帯を‘クセ’にしないとですな。

そんな私。
相変わらず肝心な一言が言えず、余計な一言ばかり口にしてしまうエブリデイを過ごしております。
なかなかどうして思い描いたように己を成長させることって出来ないものですね。

息子が今読んでいる本にもこう書いてありましたよ。

『思いついたことや、見たり聞いたりしたことを、よく考えずにしゃべりまくるのは、あまり教養のある者のすることではない。
すぐに話さなくちゃならないことならともかく、そうでないなら、よく考えて、話すときを見はからって話すのが、教養のある者のすることだ……』

小学生向けの本にこんな真理が書かれているんですもの。
胸にグサグサグサーッと来まくりましたよ。

息子の名前 “倫太郎” の由来の一つにもなった『天の瞳』(灰谷健次郎著)の主人公 “小瀬倫太郎” くんは、なかなかのやんちゃ小僧なのですが、おじいちゃんの言葉には目に違った光を宿らせて聞き入るんですね。

そんな関係を築きたいんだぜ!ヌフー!

と鼻息荒く、家族との愛しき日々を過ごしているのだけれども、どうにも空回りばかり。
自分の言葉を自分の中に宿らせてみたいものです。

そのおじいちゃんが、小学四年生になった孫の倫太郎くんに語りかける言葉をココに記す。

“記憶という字を頭に思い浮かべて、じいちゃんの話をよう聞け。
記憶の「憶」という字の意味は、心で言葉が立つ日に心が宿る、ということじゃ。

どういうことかというと、話す人の記憶と思いがしっかりしていて、きく心のある相手に、それが届いたとき、はじめてその話に心が宿る、というわけじゃ。

記憶の「記」は「言」という漢字に「己」と書く。
言う己がしっかりしとらん者には、記憶は授からん。

倫太郎。
じいちゃんはな、おまえに心をこめて、これまで、いろいろと話をしてきた。
おまえはじいちゃんの話を、おまえの心の全部で受けとめてくれた。

神さまが、人間に授けてくれた記憶という宝物は、つまらんことを覚えるためにあるわけじゃない。”

心で言葉が立つ日に心が宿るか……

胸に刻もう。

股旅。

流されるのではなく流れを作れ

今年からカブトムシ&クワガタムシをポーチで飼っている。
店内に昆虫飼育箱を置いている謎の床屋はもう卒業したのだ。

そうしたら朝虫たちにゼリーをあげようと見てみるとカブトムシが飼育箱近くにいたりして、昆虫採集に行かずともゲットできるようになった。
(今朝はカナブンを捕獲)

匂いで寄って来るのかな。
それとも超音波か何か出しているのかな。
ともあれ昆虫スゴいぜ。

さて。
近頃スリップノットに夢中な息子の話である。
どうしても欲しいと言うので、ボーカルのコリィが着用しているマスクをゲットしたのだが、何しろラバーの匂いがキツくて、かぶれたもんじゃないし、キッズサイズではないので、息子が「お父さん似合うよ!」と言い出した。

来年五十歳になる自称ナイスミドルな私にこのマスクをどうしろと言うんだい?

なんて一瞬も思わず、喜んでかぶっている。
しかしなんだね。
こんなマスクをかぶって、あんなパフォーマンスをするスリップノットのメンバーたちのガッツと体力はハンパないですな。
何しろ息苦しいし暑い。

でも、スリップノットのメンバーの大半が私と同年代というね。
デビュー当時は二十代半ば過ぎくらいかな?
だったら、ヤレる気がするが、それを二十年以上継続しているのだから敬服する。
体力はもちろんだが、あのテンションを維持しているのがスゴい。

それにつけても、息子がスリップノットを選んだことが嬉しい。
赤ちゃんの頃からいろんな音楽を聴いて、いや聴かされてきたわけで、その中からコレってのはまさかのチョイスだ。

自分で見つけてきて、自分で好きになったのだ。
これは宝物だよ。
僕はスリップノットは好きだけれども、それは二十年も前の話で、今はもうアルバム一枚も持ってないし、店やクルマで流れたことは一度もない。
息子は自力でたどり着いたのだ。

それが、小洒落た音楽ではなく、プリミティブな衝動に満ちた熱量の塊みたいな音楽だってところにね。
お父さん、グッと来ている。

これからも自分の好きなものを追い続けておくれ。

そういうことか

マスクブーム真っ只中である息子の影響を受けて、ジェイソンマスクをゲットしてみた。しかし何なのだろうか、この謎の魅力は。装着してみると、息子が夢中になる理由がちょっとわかったような気がする。

ジェイソン、それは映画「 13日の金曜日」シリーズに登場するキャラクターなのだが、私はそれほどジェイソンには思い入れがなく、装着してても「ジェイソンな気分だぜ!」というより、北斗の拳のジャギ、もしくはマッドマックス2のヒューマンガスの方がしっくりくる。幼少時からホラー映画は好きではなくて、ずっと遠ざけてきた分野だからだろう。

こうやって写真を撮ってみると、やはり目のまわりは黒く塗らないといかんね。肌色が見えると、どうにも白ける。

マスク、深いぜ。

それが知りたい

やっと夏らしい日和になったぜ!

っつーことで颯爽と裏庭へとダイブし、せっせと草刈りに励んだわけです。汗だくで土埃にまみれているとなんだかスッキリするのです。多分、体の中にある何かこうドロドロネバネバ臭いものが毛穴から出まくっているであろう感じなんですよね。

写真では、厳しいシカメっ面をしているが、こう見えて心の中では「サイコー!」と叫んでいるのである。人は見かけによらないことも、たまにあるのです。

息子がレンタルしていた「クレヨンしんちゃん」のDVDを返却するついでに、本屋をぼんやり眺めていたら面白い本を見つけたのです。

「最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常」(二宮敦人著)。入試倍率は東大の3倍!卒業後は行方不明多数!!そんな藝大の各学部の学生たちへのインタビューから、彼らの日常に迫る……なんて帯に書いてあったら、そりゃ読みたくなりますよね。

藝大生の方々が、いつその道に 目覚めたのか、それが自分自身から生じたものだったのか、それとも他の誰かからの影響だったのか……そういうの知りたいじゃないですか。

決して息子を藝大に行かせたいってわけではないのですが、息子も小学二年生になったわけで、習いごとの一つくらいは……なんてちょっと考えているのですが、息子が「やりたい!」と言い出すのを待つべきなのか、それとも多少導くべきなのか、ホントどうしたら良いのかしらん って日々悶絶しているわけです。

そこに答えなんかないし、きっと正解なんてないのだろうけども、ジタバタしたいじゃないですか。何にせよ、そこに至ったプロレス、 じゃなくてプロセスが重要じゃないですか。イージーなのは好かんのです。ちょっと面倒臭いぐらいが、ベリー最高に 丁度イイ塩梅なのです。

股旅。