また次の旅が始まる

十数年の長きにわたり、当店にお客様を呼び寄せてくれていたスタンド看板を額装しました。

これは DOODLIN’ BARBER SHOP の開店三周年記念&私の三十六歳の誕生日にいただいたもの(つまり十四年前)で、絵描きのアラヤンが描いて、それをササキリョーが看板にしてくれたものでして。
お客さんを呼ぶだけでなく、ある意味店が目指すべく方向性の指針にもなったし、これまた目指すべく雰囲気を作り上げてくれたものでした。

だけどもさすがにだいぶ傷み始めてて、焼けて色は退色して来たし、表面が剥がれているところもあるしで、どこかのタイミングで勇退してもらわねば……と考えていたところ、今日いきなりピーンと来たので、ビシリとフレームインさせていただいたわけです。

長い間、ご苦労さまでした。
この看板に匹敵するようなものは作れないし、そんなものが出来てしまうのも嫌なので、全く比較対象にならないようなスタンド看板を作れたらなとぼんやり考えています。

それってどんなのよ?

あんま私もわかってません。
なんとなく、こんな感じかな〜ってのがあるくらいです。
でも、そういう力が抜け切っているときこそ、面白いものが出来たりするから面白いです。

アラヤンの描いた作品は数あれど、私にとっては、この二枚が最高傑作。
ずっと背中合わせだった、この二枚が、こうやって並ぶと何とも感慨深いものです。

アラヤン、また何か一緒に作ろう。
リョーにプロデュースしてもらってさ。

股旅。

アガる、それはいつも正しい

歩数計をゲットした。

一日一万歩を目標に一週間過ごしたが、恥ずかしながら一日も達成出来ず。

普通に過ごして一日、四、五千歩ってところで、意識して歩くようにしても九千歩くらい。
思っていた以上に一万歩の壁は高かったんだった。

でも「出来るだけ歩こう!」って気持ちを得ることができたのは収穫だ。
なんだか自分が全然違う生き物に生まれ変わったような気になったもの。
数字に支配されるのも悪くない。
無理矢理歩くってのも、気分が良かったりするから面白い。
BGMは、もちろんフィッシュマンズの「Walkin’」であるのは言うまでもない。

昨日読んだ本にあった

「良いモノはゆっくりでも売れていく。良いモノなら売れる……」

って言葉にやけに胸が躍ったのはナゼだろう。
自分でもあまりわからないんだけど、自分がやってきたことを肯定してもらったような気がしたからだろうか。
周りに支えられて、どうにかやりたくないことをやらずに日々を過ごせている幸福。
ありがたし。

友人が営む “Local Barber HIRAKAWA” のオリジナルグリースをレギュラーで取り扱わせていただくことにした。

お客さんの仕上げセット用にと特大サイズのも仕入れたのだが、良いわ、これ。
デカいってだけで、アガる自分がいるもの。

アガる、それはいつも正しい。

神々の悪ふざけ

今日も朝から裏庭にロケットダイブして、せっせと草刈り。
夏空の下、ミントの香りに包まれながら我が家をパシャリ。
うむ、気持ち良し。
良い休日になりそうだ。

今更ながら、ジム・ジャームッシュ監督(68歳)のゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』を観たのだが、イギー・ポップがゾンビ役で出てきたのには吹き出した。

私の記憶が正しければ、既に70代半ばのはず。
そんな伝説のロックスターが迫真の演技でゾンビを演じているのだ。
ロン毛で上半身裸で、あのゾンビ特有のゆっくりした動きで、ガブガブ人を食べているのである。

その上、あのトム・ウェイツ(71歳)も、髭もじゃ世捨人役で出てくるしで、青年期より憧れ続けた爺さんたちが、仲良しみんなで集まって大真面目にふざけてゾンビ映画を作ったのだ。

まさに“神々の悪ふざけ” である。
つまり最高ってことだ。
夢満載だな。

これは多分、「歳を食ったからって、ふざけるのを忘れちゃダメだぜ」という大先輩たちからのメッセージだな。
うむ、きっとそうだ。
これは、しっかりと受け止めなければならないな。

大真面目にふざける……

これが、これからの余生のキーワードにきっとなるだろう。

だがしかし、コロナふざけるな。

まさかの電光石火

庭に現れたカナヘビを息子がこともなげにサラッと捕まえたから驚いたのです。

正直、そのやり方じゃ無理だよ……
絶対逃げられるって……
いや、失敗するっつーのもまた良し!
何かと口出しするのはオレの悪いクセ!

そんな思いが逡巡していただけに、それはそれは衝撃的光景だったんだった。
私の常識&想像を軽々越えた電光石火の如く荒技を繰り出した息子。
いやはや感服いたしました。

これからの人生、息子から教わることばかりになるかもしんまい……
そんな気がしまくっているのです。
でも、それってきっととても幸福なことよね。
ですよね。

くだらないの向こう側

近頃また本が読めている。

「いや、ちょっとこれ無理っす!」

と途中で読み進められなくなった『千年の愉楽』(中上健次著)を再び手に取った。
相変わらず凄まじい筆致なのだが、今は読める。

読んでいるうちに、体の奥底にモワワーンと澱みが出来る感じも、今は悪くない。
むしろ心地良いくらいだ。

で、読みながら微音で MOGWAI を流したりしているんだが、オレはハッと気づいた。

多分オレは MOGWAI を流しながら、中上健次を読む……
そんな自分が好きで、そんな自分に酔っ払っているのだ。
本当に本質的に好きなのではない。

あ〜オレ入っちゃっているね〜イイよ〜イイ感じ〜

と泥酔しているだけなのだ。
こういう人の深淵に触れるような作品ではなく、ペラッペラでスッカスカのものの方が本来好きなのだ。
わかったよ。
わかちゃったよ。

でも、それが悪いってことではない。
恥ずかしいことでもない。
そんな自分もいるよね〜って気づいていればオッケーだろ。

こんなふうに考えられるようになったのも、五十歳になったからかしら。
うふふ。

そんなわけで、オレは『男気の作法』(ブロンソンズ著)を手に取るのだ。
この清々しいくらいの しょうもなさ &くだらなさ。
これだよ、これこれ。

誰かが、くだらないの中に愛がある……
なんて歌っていたが、あれホントだな。

くだらなさの向こう側に何があるか……
あれがあるのよね。

でもね。
人間、時にはシリアスなのも必要ね。
いつも、ふざけてばかりだとバカだと思われちゃうからね。
バカだと思われるのが大嫌いな馬鹿だから、難しい本読んで「ふ〜む……」なんつって憂いたりするのよ。

楽しいね。
うん、すごく楽しい。

股旅。