それが大事

ものすごく今更なのだが『整理整頓』の重要さを痛感している。『整理整頓』さえ出来ていれば、まず人生でつまずくこともないのでは?と思えるぐらいにだ。

そういえば小学校の教室には必ずと言っていいぐらい、『整理整頓』とどこかしらに記されていた。先生たちも何かといえば『整理整頓!』と口にしていた気がする。

身近にあった言葉なはずなのに、どこか遠くにあったな。『整理整頓』さえすれば、とても店として良くなるだろうし、何より自分の気持ちが良くなる。それがわかっているのに腰が重いのはなぜだろうなぜかしら。

そういえば何かの小説でこんなことが書かれていた。

無形重要文化財的人物に弟子入りしたのだが、来る日も来る日も掃除ばかりさせられている、一年近く経つのに技術の一つもまだ教えてもらえていない……
そうぼやく青年に「それがなぜかわからんようだったらモノにはならん……」とぼやかれた人が説くなんつー話だ。

この場面が妙にしっくり自分に入ってきたのはなぜだろうなぜかしら。

なんてことをココで書いているのは、自分自身に「整理整頓しっかり心がけようぜ!」と言い聞かせるためだ。

もう一度言う。

『整理整頓』大事!

それにつけても憎いのはハエの奴らである。心地よい空気感に誘われて、入り口ドアを開けて営業していたら、一匹のハエがインザハウス。出て行ってくれよと懇願するも、どこ吹く風でブンブブンブン。しまいには、もう二匹入ってきて発狂しそうになった。

一夜明けた今も、ブンブン飛んでいやがる。いったい彼らの目的はなんなのだろうか。何をどうしたいのか問いただしたい。

ハエといえば虫なわけだが、昨日六歳半の息子がトノサマバッタを捕獲した。さすがトノサマと言うだけある。殊更、その姿は立派だ。王者の品格すら漂う。息子はカナヘビ も自分で捕まえた。これらを獲るには、知恵とアイデアと反射神経が必要だ。

この『自分で』というのが大切だと思う。虫が獲れたからって、それがなんだっちゅーんだ!と賢いあなたは言うかもだが、こういうの大事。トノサマバッタ、なかなか獲るの難しいよ。獲るのが難しいと知ることも大事。

四十八歳の床屋のおやじさんは、店内に侵入したハエをどう退治すべきか苦悶している。こんな年齢になっても知らんことばかりだ。上手く退治出来たら、その方法を息子に伝授しよう。さすれば、彼の今後の人生「ハエのやろう!」となったとき、ジタバタ慌てることもないだろうし。

話が行方不明になってきたので、そろそろ退散します。

股旅。

The fool on the hill

息子がやりたいというのでダウンロードした顔変換アプリが面白い。


色々遊べるのだが、中でも秀逸だなと感心したのが、手持ちの顔画像と自分の顔をミックス出来る機能だ。

いくつかやってみてハッとしてグッと来たものを並べたのが、この画像だ。左端はマイファーザーとのミックスなのだが、もはやこれは父だろ!とシャウトしたくなるほど似てて笑った。他のは、友人アラヤンが描いた市川海老蔵とカウント・ベイシーとジョーカーである(ちなみにジョーカーは『ダークナイト』バージョンである。今上映中の「JOKER」も観ました。感想はお店で語らいましょう)

しかしまぁなんだな……と時折感じるのが、こういう機能って、何がどうなってそうなるのか全然わかってないのに楽しんじゃっているよねオレ。でもそれってどうなの?いいのそれで?いいんです!ということ。

これに限らず、見渡してみれば、こういう物事にばかり囲まれて暮らしていることに気づく。何処かの誰かが「あなたがたがボーッと過ごしているうちに、ものすごく頭の良い人たちが世の中をどんどん変えていっている……」と言っていたが、ホントそうなのよね〜ウフフと鼻くそほじりながら、丘の上で沈みゆく太陽を眺めながら世界が回ってるのを見つめてしまう。(ビートルズの「The fool on the hill」は僕の人生のテーマ曲なのです。とっても恥ずかしながら)

そんなわけで、遅ればせながら当店15周年記念的スウェットの製作に入りました。良いのが出来そうな期待ムンムンです。お楽しみに。

そんなことを思った。

ぼんやりテレビを眺めていたら、若かりし頃に世界百数十カ国を旅したんだという人が出てて「あちこち旅をして、いろんな物事を見聞きし、貧しい方々を見てきたけど『貧しいんだな』ということしかわからなかった……」みたいなこと言っていた。
「わからなかった」って正直だなと思った。「わからない」ってことを「わかる」って大事だなと思った。わかったふり、知ったかぶり、そういうのなるべくしたくないなと思った。

先週末、ものすごい台風が来た。おそらく四十八年の人生で一番猛烈な台風だったろう。先月の台風15号の猛風によって傾いてしまった我が家のオリーブ。造園屋さんが剪定し補強して立て直してくれたのだが、予報では瞬間最大風速60mとか言ってて、これはもうまたやられてしまうんじゃないかと不安に慄いていたのだが、台風去りし後もビクともせず直立不動。朝日の中、その勇姿を眺めたとき、拝みたくなるような気持ちに駆られた。でも拝まなかった。

台風一過の青空の下。安堵の気持ちとあいまって、たまらなく気持ち良かったのだが、被災した方々のことを思うと罪悪感を覚えた。以前は、どこか遠くの人々のことなどかまうことなかったのだが、いつの間にやらそういう気持ちが芽生えるようになっていた。人はもしかしたらこれを成長と呼ぶのかもしれないなと思った。

股旅。

一人いればいい

小学一年生、六歳半の息子 倫太郎が近頃夢中なのはトカゲ。
近所の友達とあちこち駆け回って捕獲している。
大きさや色でレア度のランクがあるらしく、レインボーで大きいのを捕まえたらヒーローになれるようだ。
 
 
 
彼らが夢中で探しているのをぼんやり眺めていたら、何やら息子がむずかっている。
それもそうだ。
ただ一人の一年生なのだから、スピードもテクニックもまだまだ上級生に及ばない。
 
 
「オレにちょーだい!」
 
 
涙目でうったえている。
そんな一年生を、なんだよまったくさ〜と困り顔の上級生たち。
そんな中、一人の上級生が
 
 
「お前らそう言うのよせよ。年下なんだからさ。
俺たちが獲ってやろうぜ!」
 
 
と言ってくれた。
彼はきっとリーダー的存在なのだろう。
 
 
「よし!じゃあ、次獲ったのは倫太郎にあげよう!」
「オーッ!」
 
 
なんて急展開するから、子供って面白い。
 
 
その言葉通り、次に獲ったのを息子はもらった。
そのあと、みんなで何匹か獲ったのだが、一人だけ一匹も獲れなかったコがいた。
 
 
「倫太郎の一匹、ちょーだい!」
 
 
彼が言い出した。
息子は、私が獲ってあげた大物をすでに持っていたので、さっきもらったのを合わせると二匹が虫カゴに入っていた。
でも、息子はそれをあげたがらなかった。
 
 
「これ、オレのだもん!」
 
 
「ちょーだい!」
 
 
「やだ!」
 
 
二人とも、もう泣きそうだ。
それを見守る上級生たち。
 
 
すると、息子はキッと口を結び、虫カゴに手を突っ込み、さっき上級生たちからもらったトカゲを差し出した。
 
 
「大きいのはお父さんが獲ったのだからダメだからね」
 
 
「ありがとう!」
 
 
子供っていいな……と思った。
 
 
 
いじめの問題。
うちの息子に「採ってあげようぜ!」と声をあげてくれた上級生。
ああいうコが一人でもいれば、いいのだ。
一人だ、たった一人いればいいのだ。
 
 
 
それで救われる、思い、気持ち、尊厳、命がある。
そう思う。
 
 
 

いつの間にかそうなっている

年を重ねるにつれて、蚊に刺されても反応しなくなるのだよ……
 
 
こう言うと「んなまさか!またまた〜笑」みたいな反応をされることが多いのだが、これは厳然たる事実なのである。
 
 
幼少時に比べて蚊に刺されてもダメージ少なくなったよな〜と思いつつ、でも気のせいかなと私も思っていたのだが、息子の『危険生物図鑑』に
 
「赤ちゃんや幼児はゆっくり痒くなり、蚊に刺される回数が多くなるにしたがって、すぐに痒くなっていく。毎年、蚊に刺されながら年を重ねると、やがて反応も出なくなるんだぜ……」
 
と書いてあるのを見て「こ、これだっ!」と膝を叩きまくってしまったんだった。
 
 
うちの息子も、二、三歳の頃は刺されたその日は何でもなく、翌日にプクーッと赤く腫れ始めていた。
こんな腫れちゃって大丈夫なの?と心配したが、六歳になった今は、赤ちゃんの頃ほどは腫れない。
徐々に徐々に耐性がついてきているってことなのだ。
 
 
四十八歳である私は、蚊に刺されて「痒いぜ!」と悶えることもたまにあるが、それも束の間。
小一時間も経てば、痒みも赤みも一切の痕跡がマジックのようになくなっている。
十年、二十年後には、刺されても全く何も感じない超人になっていることだろう。
 
 
 
年を重ねてなくなったことが他にもある。
魚の骨が喉に刺さることがなくなったのだ。
幼少時はバッシバシ刺さった記憶がある。
それが今や全くナッシング。
これは経験により学び、刺さってしまう恐れのある魚骨を、目視で排除したり、口内で上手に捌けるようになったのであろうとも推測できるが、何より成長して喉の幅が大きくなり通過しやすくなったことが、その大きな理由であろう。
 
 
だから、ガッツガツ急いで白米を食べても喉につかえることも大人になってからいつの間にかなくなったのだなと推測される。
これまた幼少時はしょっちゅうつかえていたのを覚えている。
 
 
 
これらは「今まさにこの瞬間!」と自覚することなく、いつの間にか変化していったものだ。
きっと他にもそのようなことが多々あるのだろう。
 
 
 
いつの間にかそうなっている……
 
 
 
これもまた一つの幸福の形なのだろうな……
 
 
 
だなんて、よくわからないことをぼんやり考えている月曜日の朝である。
一昨日の土曜日に行われた息子の運動会は楽しかった。
子供達が一生懸命に走る姿を見るだけで、こみ上げるものがあった。
涙もろくなったものである。
 
 
「最後の運動会が終わっちゃったよ……」
 
息子が寂しそうにそう呟くのである。
 
「最後じゃないよ。小学校の運動会はまだあと5回もあるよ」
 
と私が言うと
 
「違うんだよ……一年生の運動会はもうないんだよ……」
 
と返された。
 
 
私はハッとしてグッときたんだった。
息子よ。
父さんは、その考え方を見習いたいと思ったぜ。
 
 
息子もまた、いつの間にかそういう感性を身につけていたんだった。
 
 
 
よしよし。