何事もいきなりは野暮

私が選曲した MIX CD をもらってくれた Freemans Sporting Club の矢谷さんからメールをいただきまして。

 

 

「てっぺいさんセレクトは、いつも全体の構成の心地良さも勿論ですが、二曲目でいつもグッと持ってかれます……」

 

 

だなんて言ってくれてて、ありがたいな〜嬉しいな〜と思いつつ、常々『どのアーティストのどのアルバムもだいたい二曲目がイイよね!』と感じてた私は『そっか!オレも一緒なんだ!』ってことにハッと気づいたのでした。

 

 

言われてみれば、確かに一曲目はご挨拶的な曲を選び、二曲目からが本番って意識が働いてたかもしれない。
そういえば人前でレコード選曲するときもそうかもしれない。

 

 

昨夜の「BAR CLOSED」@西所沢 C.V.C MALL 二階 SPACE FORREST での選曲も、一曲目を真心ブラザーズの「メロディー」にしたのだけれども、それは主催のテルくんへご挨拶に代えて贈るって趣旨で選んだわけでして、二曲目の CUT CHEMIST からが「さあこれからだぜ!」って心構えだった気がしないでもない。

 

 

聞けば、どうやらアルバムの二曲目に勝負曲を持ってくるっつーのは業界のセオリーらしくて、作り手もそれをかなり意識した曲順にしているらしい。
確かに一曲目からいきなりバイーンと行くのは照れくさいかもですね。
同じ理由で、多分きっと私も選曲しているのでしょうな。
何事もいきなりは野暮ってもんなのです。

 

 
でも時には「つかみはオッケー!」的に一発目にかまさなきゃいけないことが人生にはままあるわけで、そこら辺の判断力ってのが必要なんじゃないかなと感じ入る今日この頃なのです。

 

 

股旅。

とどのつまりそういうこと

「これ、誰の言葉だったっけ?」

 

 

妻さんから、そんなタイトルのメールをいただいたのはつい先日のことだ。

 

 

そこに記されていたのはこの言葉。

 

 

『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに……』

 

 

あれれ……これ誰の言葉だったっけかな……
真島昌利さんが同じようなこと言ってたけど、
それは

 

 

『難しいことはわかりやすく、わかりやすいことは面白く、面白いことは深く……』

 

 

だったし、あれれ……誰だったっけ……

 

 

調べてみたら、井上ひさしさんの言葉だった。
はいはいそうでしたそうでした!
と知ったかぶりたいところだけども、正直なところ多分私はこの言葉に触れたことはないはずだ。
なんとなく聞いたことあるような気がしないでもないけれども……

 

 

それにしてもこの言葉は素晴らしい。
あまりにも素晴らしいから、細かく分けてまた記すよ。

 

 

むずかしいことをやさしく

やさしいことをふかく

ふかいことをおもしろく

おもしろいことをまじめに

まじめなことをゆかいに

そしてゆかいなことはあくまでゆかいに……

 

 

 

ひらがななのがまたいい。
日々の生活における基本姿勢はこうありたいし、こうなりたいなと思う。

 

 

「これこれ、まさにこれなんだよ!仕事も選曲も遊びも何もかもこれなんだよ!」
などとおこがましくも、多分に感じ入ってしまった。
図々しいけども。

 

 

またまた妻さんに感謝しなくてはだな。
いい言葉をありがとう。
今後の指針になるような素晴らしい言葉だと思います。

 

 

余談になるが、レコードで音楽を聴くって行為もこれなんだよね。
どこかで誰かがきっと「わかるぜ〜」と言ってくれることを信じて。

甚だ鬱陶しいテンションで失礼

確定申告も無事完了し気分はウホホなのである。

この甚だしいめんどくささも、いつの日か「これも良いよねウフフ」となるんじゃないかとやってきたが、その兆候は全く見られず。

この秋で開店十五年になろうというのに、まだまだ理想的な自分&店も遥か彼方で尻尾すら見えずなのである。

しかし、私もこのまま調子良くいけば五月で四十八歳。

自分まだまだ若輩者っす!オス!

だなんて可愛らしく言おうものなら、川越のうどん屋あたりにトペ・スイシーダを喰らいそうだ。

そう、つまりいい加減甘えが許されない年頃にとっくになっているわけである。

そろそろ渋みを携えていきたいわけである。

トペ・スイシーダといえばルチャ・リブレ。

ルチャといえば、友人で画家のアラヤンなのである。

毎年恒例となっている新所沢 cafe grapple でのアラヤン展に行かねば!

と気がはやるのも確定申告提出後の風物詩。

開催日はホワイトデーまで。

いつもより、ちょいと遅れてしまったが、きっと「これだよ、コレ!」と絶叫したくなるような作品がまだ未注文であるはずだ。

その際は、grapple 店主の伊坂くんにドラゴン・ロケットをお見舞いしなくちゃな。

写真で私が掲げているスケートボードは当店で使用中のキッズ用補助椅子。

アラヤンに描いてもらった逸品だ。

こういうの欲しいと詳細まで説明しなくても、アラヤンは描いてくれる。

こういう関係を大切にせねばね。

さてと。

鬱陶しいテンションで申し訳ありませんでした。

甚だし面倒くさい確定申告書作成からの開放感ともに、否が応でも昨年の自分の仕事と向き合わなくてはならないストレスも相まって、この時期はこんなテンションになりがちなのです。

失礼しました。

僕はぼんやりこんなことを考えている

先日、ぼんやりとテレビから流れているドキュメンタリーを眺めていたら、70代半ばの男性たちがこれから会社の同期入社仲間の新年会なのだと集まってて、今日は二人病気で来られなくて、同期入社も既に半分は死んでしまったのだと微笑みをたたえて言っていた。

 

 

よくよく考えてみれば、まあそんなものなのだろうけども、よくよく考えることをサボりがちな僕は少々その圧倒的現実がショックだったんだった。

 

 

三十年もしたら、小中高大と一緒に過ごした連中も自分も含め半分はゴートゥーヘヴンってわけか。
それは今想像するととても寂しく感じるのだが、その年齢になる頃には「みんな死んじまったよ〜」と満面の笑みで言えるのだろうか。
まあ多分きっとそうなっているのだろう。
その前に、その境地に達するまで自分が生きているかどうかわからんが。

 

 

近頃、脳内でずっと SPECIAL OTHERS の 「Laurentech」が鳴り響いている。
ちょいとした切っ掛けで、十年前の日比谷野音でこの曲を演奏している映像をYouTubeで見たのが始まり始まり。
曲はもちろんいいのだが、このライブ映像がまたたまらなくイイ。
多幸感って言葉が相応しいだろうか。
演奏しているメンバーの佇まいが、なんかこうなんつうのこうあれなんだよね、あれ。
これから人生の終演まで、こういう曲がずっとバックグラウンドで静かに流れているような、そんな日々にしていきたいなぁと漠然と思ったんだったんだったん。

 

 

今更ながら、映画「BABY DRIVER」を観たのだが、なんかこうなんつうか、そんな自分の気持ちにジャストフィットしてスムーズインするような映画だった。

音楽の使い方がたまらなくイイ。
主人公の音楽への寄り添い方もヒジョーに共感できた。
タランティーノ以降からなのかな。
既成の曲をとても上手に使う監督が増えた気がする。
オリジナルのスコアではなく、ありものの曲で物語を彩る。
今はそういう流れなのだろう。
とてもイイと思う。
こういう音楽を前面に押し出した映画って、ある意味イイ音楽の伝道師的な役割を果たしていると思う。
素晴らしい。
そしてちょっと羨ましい。

 

 

 

それではそろそろ股旅。

 

 

 

なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん

中学時代から三十数年読み続けてきた本が完結した。
執筆開始から三十七年。
私が読み始めたのはそれから数年後。
確かすでに第2章まで文庫化されていたと記憶している。
それが昨年の秋に第9章で完結した。
読み終えてしまうのが惜しくて少しずつ読み進めた。
終わりが近づくにつれて感情が昂ぶった。

 

 

一人の男の人生を描いた物語。
最後その男が死んで物語は終わった。
わかってはいたが、自分でも想像していた以上にこみ上げるものがあった。
涙も出た。
たかが小説なのに、こんなにも心うち震わせられた。
この作品に出会えてよかった。
三十数年、次章が発売されるのを心待ちにしてきた。
これから、このように向き合える、付き合える作品と出会うことはないだろう。
この本との出会いは私の人生の宝となった。

 

 

その作品の主人公が、二十歳になった息子にこう語る場面がある。

 

 

『お天道さまばっかり追いかけるなよ。

わしは若い頃からお天道さまばっかり追いかけて失敗した。
お天道さまは動いちょるんじゃ。
ここにいま日が当たっちょるけん、ここに坐ろうと思うたら、坐った途端にもうそこは影になっちょる。
慌ててお天道さまの光を追って、いまおったところから動いて、日の光のところへとやっと辿り着いたら、またすぐにそこは影になった。
そんなことばかり繰り返してきたんじゃ。
じっと待っちょったら、お天道さまは戻ってくる。
お前は、ここと居場所を決めたら、雨が降ろうが氷が降ろうが、動くな。
春夏秋冬はあっても、お天道さまは必ずまたお前を照らす……』

 

 

解釈は自由だ。
場所と考えてもいい、仕事と考えてもいい、人間関係と捉えてもいい。
いろいろ様々なことに通ずる教えだと思う。
この言葉を私は手前勝手に自分への言葉でもあると受け止めることにした。

 

 

この物語には無数のダメな人間が登場した。
ダメな奴がダメなまま終わるエピソードばかりだった。
主人公は信じた人間に裏切られ続ける人生だった。
キレイごとなど皆無だった。
でも、希望がないわけじゃない。
そこにちゃんと作者の思いやりに満ちたまなざしがあることを私は感じた。
最悪な事態に包まれても、そばにいてくれる人が必ずいる。
手を差し伸べてくれる人がいるということも描いていたからだ。

 

 

人にはそれぞれ事情がある……

 

 

そう肝に銘じて、許せない人間を許せってことではない。
そう思うことによって、自分自身がちょっとだけ救われるのだ。

 

 

「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん……」

 

 

主人公の口癖であり座右の銘であったこの言葉を私自身の座右の銘にもしよう。

 

 

敢えて作品名は明かさなかった。
まだまだいっぱい話したいことがあるので、お店にいらしたときにでも続きを話しましょう。

 

 

それではまた。