ふとした思いを綴った日記

以前読んだ無人島に漂着した人々を描いた実話をベースにした本の話です。
 
 
それぞれ、それなりのプロフェッショナルで、各人協力して困難を乗り切ってどうにか生還しようと奮闘するわけです。
 
 
その中で、風流を愛し音楽を奏でるのが得意な男がいましてね。
漂着当初、その音はみんなを和ませ不安を和らげ、希望にもなるのですが、徐々に食糧が尽きてきて、体力を奪われ始めると誰も音楽を求めることすら出来なくなっていきます。
 
 
それでもどうにか生き抜こうと皆が耐えているとき、音楽を奏でていた男は崖から身を投げてしまうのです。
楽器だけを残して。
 
 
これを読んで私はショックを受けましてね。
所詮、芸術なんてものはそんなものなのかと。
極限のサバイバルな状況においては、真っ先に脱落してしまうのだなと。
風流を愛する心なんてのは邪魔になるのだなと。
 
 
でも、私は思い直しましたよ。
だからこそ、芸術は大切なんだぜと思えて来ましたよ。
人間らしくあるために必要なものなんだぜってね。
 
 
ちなみに床屋はどうかといいますとね。
 
 
物語の終盤、これでどうにか生還出来るってなったとき、みんな髪を髭を整え始めるんですね。
 
 
それまでは外見なんてどうでもいい状態だったわけです。
それどころじゃないわけです。
 
 
生きる、生活するって思えたとき、人は外見を整えるのですね。
 
 
漂着したメンバーの中に床屋はいなかったので、それぞれ整え合うわけなのですが、ここで床屋がいたらもっとクールな姿で生還出来たはずなんです。
何せ十数年ぶりの帰還ですからね。
ビシッと決めたいじゃないですか。
 
 
もし自分が漂流したら先に死ねないですね。
最後の最後に、仲間をかっこよくするっつー重大な役目がありますから。
 
 
まあ、何が言いたいかっつーと、みんな髪を整えに行こうぜってことです。
髪を整えたいって思い、それはとても人間らしい、人間ならではの思いなのですよ。
 
 
 
 

そこ機転利かせていこうよ

お客さんの大内さんから薦められて購入したCD『Music From The Films Of Woody Allen』がすごぶる良い。(なんと3枚組で1300円也)
ウッデイ・アレンの作品中で使用されたジャズを集めたコンピってことで、それはもうハズレであるわけがないのです。
おこがましくも、こんな音楽がさらりと流れているような床屋を目指している僕にとってはまさにどストライク。
どんどんこういう音楽を吸収していきたいですね。
どこに吸収?
僕にじゃありません。
店に吸収させるのです。
吸収させ続けると、やがて店に色合いが生まれ、良い空気を醸し出し始めるのです。
これホントです。

 

 

今読んでいる『サブカルで食う』(大槻ケンヂ著)がたまらなく面白い。

 

大槻ケンヂさんが池袋の西武百貨店の屋上でやっていたフリーライブに行ったときのエピソードが書かれていましてね。
近隣から音がうるさいって苦情があって、大トリだったシーナ&ロケッツには一曲だけやってもらうって流れになったそうなんです。

 

 

会場はもう暴動寸前みたいになったのですが、シナロケが出てきて鮎川誠さんが「仕方ないんで一曲だけやりますんで聴いちょってください」ってストーンズの「サティスファクション」をはじめたわけです。
「満足できないぜ」って曲ですよ。
しかも、その一曲を四十五分くらい演奏したんだっつーから、しびれてしまいました。

 

 

この機転の利かせかたね。
ここで「ふざけんじゃねえよ!」って暴れる方向に反骨精神を発揮するんじゃなく逆境をチャンスに変えてしまう。
しかも、そこでちょっとユーモアを入れて相手を苦笑いさせながら、みんなも納得させてしまうというね。

 

 

「なんか、生き方の重要なポイントを教えてもらった気がします……」

 

 

これは大槻ケンヂさんの言葉なのですが、僕も激しく ME TOO だぜと感じ入りました。
いざという時、こういう粋な機転を利かせられるようになりたいものです。
ふてくされたり、ブツブツ文句言ったりとかじゃなくてね。
こういう機転こそが本当の教養がある行いなんじゃないかと。
そう思うのだが、キミはどうだ?

 

 

 

ずいぶん前のこと。
航空記念公園で、スピーカーを組んでちょっとしたプチ野外音楽イベントみたいなことをやったことがあるんです。
バンドとかは出なくてレコードセレクターのみで、芝生の上で気持ち良い音楽聴きながらのんびり過ごしましょうよってな企画。

 

 

そこで、セレクターの中の二人が遅刻したんですね。
自分の時間が終わっているのにレコードは持ってくるっつー鋼の精神力で。
時間通りに来てセッティングに励んでいたみんなは当然のごとく憤っていたわけです。
論外だ。
冗談じゃない。
あいつらの持ち時間はなしにしよう!ってね。

 

 

でも僕はそこで「せっかくの楽しいイベントなんだし、ここはみんなの時間をわけあって彼らにも持ち時間をあげましょう!楽しむ、それが一番!」と提案したわけです。
「え〜!」って声も上がりましたが、主催者であるテッペーがそう言うなら別にいいよと渋々承諾してくれたわけです。

 

 

でも、なんだかんだで僕の持ち時間はなくなり、張り切って主催した自分が一、二曲しか選曲せずに終了時間を迎えるっつーどっちらけなエンディングだったわけです。
僕は当時、このエピソードを「これはもう美談!葬式の弔辞でも語られるような素敵な話しなんじゃ?」などとほくそ笑んでいたのですが、今思えば「なんだかハドゥカシィ!」ですね。
全然、粋じゃない。
偽善臭がプンプンです。笑

 

 

もっとこうナイスな機転を利かせて、みんなが笑顔になれるように出来てたらな〜と今更ながら思います。
一つぐらいは伝説となるようなエピソードが欲しいもんです。
欲しがっている時点でそれダメだよ!
だなんて言わんといてください。

 

 

それでは股旅。

頭柔らかくありたいものだ

おはようございます。

 

定休日の爽やかな朝。
だのに、今流れているのは Tom Waits の “Small Change” と云う超絶なギャップ感。
何しろ夜そのものなアルバムですからね。
でも、またこれも良しと思えるから、人間(つーか私)の感覚なんてのは甚だ適当で不思議なものです。

 

このアルバムは私が浪人生だった1990年。
ふと次兄(私は三人兄弟の末っ子)に、これ聴いてみとテープを渡されたのがハマる切っ掛けだったのでした。
ラジカセにセットしてプレイした途端に流れ出したのはガラガラダミ声。
テープにはアーティスト名とタイトルのみ。
私は一聴して、これはもう年配の黒人男性が歌っているに違いないと確信し、夜更かし勉強しながら何度も何度も聴き返したのでした。

 

これはもう物凄くCDが欲しいぞ!
と小遣いをかき集め、珍屋立川店に駆け込みCDを手に取って驚愕しました。
ジャケットには舞台楽屋らしき場所でけだるそうに佇む白人男性の姿。
まさかまさかの白人!?
しかも、このアルバムの発表当時(1976年)、トム・ウェイツはまだ二十六歳だったっつーダブルショック。
私の見立てた年配の黒人男性ってのは大外れだったわけです。

 

未だにこのアルバムを聴くと、当時の十九歳の見識なんつーのはしょうもないもんだと大いに納得しちょっとだけ落ち込み、それ以上に世界の広さと奥深さとキテレツっぷりにワクワクしたことと、初めてこのアルバムをテープでプレイした夜のことを思い出します。
音が匂いや感触や風景までも呼び覚ますんだから面白いです。

 

そうそう。
先日、ダスティン・ホフマン主演の『マラソンマン』(これまた1976年の作品)って映画を観たのです。
スリリングな展開に大いに惹きつけられたのですが、そこで光っていたのはローレンス・オリヴィエの悪役っぷり。
イメージとは真逆だったので驚きましたが、もっと驚いたのがローレンス・オリヴィエ自身が生涯でもっとも気に入っている作品がこの『マラソンマン』だということ。

 

あの稀代の名優が、ナチスの残党の極悪非道なサイコ歯科医の役を演じた作品が一番のお気に入りって……
人生ってわからんもんです。
やはり人生なんてラララだなと。

 

ついでですが、スター・ウォーズ旧3部作(エピソード4~6)でオビ=ワン・ケノービ役を演じたアレック・ギネスは、『スター・ウォーズ』出演を一生後悔してたらしく「俳優人生最大の失敗だ」と語っているそうで、スター・ウォーズに関する取材は一切受けず、ファンからの手紙は一切読まず全て捨てて、子供からサインをせがまれても、「スター・ウォーズを二度と見ないのならサインしてあげるよ」と答えたそうだっつーから、これまた人生なんてルルルラララなんだなとしみじみしちゃうのです。
どうしたんだいアレック?と優しく話を聞いてあげたいぐらいです。
感じ方、考え方、生き方、見方、聴き方、et cetera。
それらは人の数だけあるっつーことですね。
わかろうだなんて考えず、受け入れるって選択をしたほうがいいんじゃ?
とちょっとだけ考えられるようになったのは四十路に入った頃からでした。
頭柔らかくありたいものです。
Tom Waits の “Small Change” を朝っぱらから聴きながら。
股旅。

そこにあるのは答えじゃなくてヒントだけ

おはようございます。
どうにかこうにか過ごしやすい天候になりつつありますね。
今年の夏は観測史上一番暑かった夏だそうで、つまりそれはほとんどの人々にとって人生で一番暑かった夏ってことなのだなぁ……と当たり前のことにしみじみしちゃっている次第であります。

 

 

今後、この記録が毎年更新されるようなことがないことを願います。
この酷暑が地球温暖化による影響だという声も聞きますが、なんとなくですが、この地球が人間ごとき影響を受けるだなんてことはないんじゃないかと。
そう思いつつも、実は地球はとっても繊細で、些細な取るに足らない人間ごときの仕業でも簡単に影響を受けちゃうのかもなぁ……などと、いろんな気持ちが行ったり来たりしている次第でもあります。

 

 

相変わらず、音楽とか映画とか本だとかが大好物な私ですが、なんでこんなに好物なのかしらと考えてみました。
それで一つの結論が導かれたのです。
これは全て「学び」なのではないかと。

 

 

そこにあるであろう人生を上手に渡り歩くためのヒントを見つけようとしているのですね。多分。
言うならば劣等感の穴埋めってことでもあります。
足りない足りないアイキャントゲットノーサティスファクション状態なわけです。
一人の時間を上手に過ごせる能力、それを教養と呼ぶ……と誰かが言っておりましたが、教養を身につけるための時間を持てることが教養となるっつーなんだか頭がこんがらがりそうな感じですが、とどのつまりそういうことなのです。

 

 

でも、まだまだ全然足りません。
どれだけ映画を観ても音楽を聴いても本を読んでも、全然教養ある人間になれません。
もうどうすりゃいいのよ〜って地団駄を踏んでいるエブリデイでありますが、まあとりあえずこのまま持続するしかないなと結論した次第であります。

 

 

映画『スリービルボード』最高でした。
『サブカルで食う』(大槻ケンヂ著)、上手に生きるヒントが散りばめられています。
『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著)、今の自分に必要なことが書かれている予感がしまくりなので読んでみます。

でも、そこにあるのは答えじゃなくてヒントだけなのよね。

これを踏まえて触れないとイカンとです。

 

股旅。

新たな物語が生まれた

「ネコの すなすけ が、いまいち自分に懐かない、あんなにしつこくつきまとっている息子にはナゼだかとても懐いているのに……」 と苦笑いをしたら、ネコ好きの友人に「そりゃそうだよ」と言われた。
優しくて、ご飯をくれて、世話全般をしてくれている妻が一番。
ちょいと乱暴ではあるが、いっぱい遊んでくれる息子は二番。
なんだか横で見ているだけのデカいおっさんである私は三番になるのは仕方がないとのこと。
なるほど。
横で見ているだけのデカいおっさんってのにはしみじみと納得した。
私の大のお気に入りだった観葉植物 “ソング・オブ・ジャマイカ” が逝ってしまった。
度を超えた猛暑のせいなのか、私の愛情不足だったのか、その原因はわからない。
何も言わずにゆっくりと彼は枯れ果てて行ったのだった。
実は、この “ソング・オブ・ジャマイカ” は二代目。
初代は、当店のロゴやHPをデザインしてくれている友人の長友くんから 移転祝いに戴いたのだった。
情けないことに、それも二年余りで御臨終。
とても気に入っていたので、今度こそはと同じものを置いたものの、またしても逝かれてしまったのだった。 この “ソング・オブ・ジャマイカ” 。
お客さんからは、鏡越しに見切れる感じで見えていた。
私的には圧倒的存在感を持っているように思っていた。
だが、“ソング・オブ・ジャマイカ” 無くなったことに気づいたお客さんはまだいない。
開店から今まで、「この観葉植物は何てものですか?」と訊かれたことも一度もない。
もしかしたら、最初からなかったのでは?
と思ってしまうぐらいに華麗にスルーされているのだ。
こんなに私が寂しく感じているのにだ。
でも、それがまたイイ。
私はこう思うことにした。
我が店の私が愛した “ソング・オブ・ジャマイカ” は、あの宮沢賢治先が紡いだフレーズ 「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 を見事体現しているのジャマイカと。
彼のいた場所は、しばらくそのままにしておこうと思う。
寂しいと言いつつ、無くなったことによって生まれたスッキリ感があることは否定できないからだ。
そもそも、ものがあり過ぎのきらいがある我が DOODLIN’ BARBER SHOP。
ちょっと開放感が生まれたとポジティブに受け止めるとしよう。
彼亡き後に、そこに鎮座するのは、朋友 アラヤン が描いてくれたキッズ用補助椅子として代用しているスケートボード。
これもまた良しだ。
新たな物語が生まれたのだと思う。
それでは股旅。