頭柔らかくありたいものだ

おはようございます。

 

定休日の爽やかな朝。
だのに、今流れているのは Tom Waits の “Small Change” と云う超絶なギャップ感。
何しろ夜そのものなアルバムですからね。
でも、またこれも良しと思えるから、人間(つーか私)の感覚なんてのは甚だ適当で不思議なものです。

 

このアルバムは私が浪人生だった1990年。
ふと次兄(私は三人兄弟の末っ子)に、これ聴いてみとテープを渡されたのがハマる切っ掛けだったのでした。
ラジカセにセットしてプレイした途端に流れ出したのはガラガラダミ声。
テープにはアーティスト名とタイトルのみ。
私は一聴して、これはもう年配の黒人男性が歌っているに違いないと確信し、夜更かし勉強しながら何度も何度も聴き返したのでした。

 

これはもう物凄くCDが欲しいぞ!
と小遣いをかき集め、珍屋立川店に駆け込みCDを手に取って驚愕しました。
ジャケットには舞台楽屋らしき場所でけだるそうに佇む白人男性の姿。
まさかまさかの白人!?
しかも、このアルバムの発表当時(1976年)、トム・ウェイツはまだ二十六歳だったっつーダブルショック。
私の見立てた年配の黒人男性ってのは大外れだったわけです。

 

未だにこのアルバムを聴くと、当時の十九歳の見識なんつーのはしょうもないもんだと大いに納得しちょっとだけ落ち込み、それ以上に世界の広さと奥深さとキテレツっぷりにワクワクしたことと、初めてこのアルバムをテープでプレイした夜のことを思い出します。
音が匂いや感触や風景までも呼び覚ますんだから面白いです。

 

そうそう。
先日、ダスティン・ホフマン主演の『マラソンマン』(これまた1976年の作品)って映画を観たのです。
スリリングな展開に大いに惹きつけられたのですが、そこで光っていたのはローレンス・オリヴィエの悪役っぷり。
イメージとは真逆だったので驚きましたが、もっと驚いたのがローレンス・オリヴィエ自身が生涯でもっとも気に入っている作品がこの『マラソンマン』だということ。

 

あの稀代の名優が、ナチスの残党の極悪非道なサイコ歯科医の役を演じた作品が一番のお気に入りって……
人生ってわからんもんです。
やはり人生なんてラララだなと。

 

ついでですが、スター・ウォーズ旧3部作(エピソード4~6)でオビ=ワン・ケノービ役を演じたアレック・ギネスは、『スター・ウォーズ』出演を一生後悔してたらしく「俳優人生最大の失敗だ」と語っているそうで、スター・ウォーズに関する取材は一切受けず、ファンからの手紙は一切読まず全て捨てて、子供からサインをせがまれても、「スター・ウォーズを二度と見ないのならサインしてあげるよ」と答えたそうだっつーから、これまた人生なんてルルルラララなんだなとしみじみしちゃうのです。
どうしたんだいアレック?と優しく話を聞いてあげたいぐらいです。
感じ方、考え方、生き方、見方、聴き方、et cetera。
それらは人の数だけあるっつーことですね。
わかろうだなんて考えず、受け入れるって選択をしたほうがいいんじゃ?
とちょっとだけ考えられるようになったのは四十路に入った頃からでした。
頭柔らかくありたいものです。
Tom Waits の “Small Change” を朝っぱらから聴きながら。
股旅。

そこにあるのは答えじゃなくてヒントだけ

おはようございます。
どうにかこうにか過ごしやすい天候になりつつありますね。
今年の夏は観測史上一番暑かった夏だそうで、つまりそれはほとんどの人々にとって人生で一番暑かった夏ってことなのだなぁ……と当たり前のことにしみじみしちゃっている次第であります。

 

 

今後、この記録が毎年更新されるようなことがないことを願います。
この酷暑が地球温暖化による影響だという声も聞きますが、なんとなくですが、この地球が人間ごとき影響を受けるだなんてことはないんじゃないかと。
そう思いつつも、実は地球はとっても繊細で、些細な取るに足らない人間ごときの仕業でも簡単に影響を受けちゃうのかもなぁ……などと、いろんな気持ちが行ったり来たりしている次第でもあります。

 

 

相変わらず、音楽とか映画とか本だとかが大好物な私ですが、なんでこんなに好物なのかしらと考えてみました。
それで一つの結論が導かれたのです。
これは全て「学び」なのではないかと。

 

 

そこにあるであろう人生を上手に渡り歩くためのヒントを見つけようとしているのですね。多分。
言うならば劣等感の穴埋めってことでもあります。
足りない足りないアイキャントゲットノーサティスファクション状態なわけです。
一人の時間を上手に過ごせる能力、それを教養と呼ぶ……と誰かが言っておりましたが、教養を身につけるための時間を持てることが教養となるっつーなんだか頭がこんがらがりそうな感じですが、とどのつまりそういうことなのです。

 

 

でも、まだまだ全然足りません。
どれだけ映画を観ても音楽を聴いても本を読んでも、全然教養ある人間になれません。
もうどうすりゃいいのよ〜って地団駄を踏んでいるエブリデイでありますが、まあとりあえずこのまま持続するしかないなと結論した次第であります。

 

 

映画『スリービルボード』最高でした。
『サブカルで食う』(大槻ケンヂ著)、上手に生きるヒントが散りばめられています。
『「空気」と「世間」』(鴻上尚史著)、今の自分に必要なことが書かれている予感がしまくりなので読んでみます。

でも、そこにあるのは答えじゃなくてヒントだけなのよね。

これを踏まえて触れないとイカンとです。

 

股旅。

新たな物語が生まれた

「ネコの すなすけ が、いまいち自分に懐かない、あんなにしつこくつきまとっている息子にはナゼだかとても懐いているのに……」 と苦笑いをしたら、ネコ好きの友人に「そりゃそうだよ」と言われた。
優しくて、ご飯をくれて、世話全般をしてくれている妻が一番。
ちょいと乱暴ではあるが、いっぱい遊んでくれる息子は二番。
なんだか横で見ているだけのデカいおっさんである私は三番になるのは仕方がないとのこと。
なるほど。
横で見ているだけのデカいおっさんってのにはしみじみと納得した。
私の大のお気に入りだった観葉植物 “ソング・オブ・ジャマイカ” が逝ってしまった。
度を超えた猛暑のせいなのか、私の愛情不足だったのか、その原因はわからない。
何も言わずにゆっくりと彼は枯れ果てて行ったのだった。
実は、この “ソング・オブ・ジャマイカ” は二代目。
初代は、当店のロゴやHPをデザインしてくれている友人の長友くんから 移転祝いに戴いたのだった。
情けないことに、それも二年余りで御臨終。
とても気に入っていたので、今度こそはと同じものを置いたものの、またしても逝かれてしまったのだった。 この “ソング・オブ・ジャマイカ” 。
お客さんからは、鏡越しに見切れる感じで見えていた。
私的には圧倒的存在感を持っているように思っていた。
だが、“ソング・オブ・ジャマイカ” 無くなったことに気づいたお客さんはまだいない。
開店から今まで、「この観葉植物は何てものですか?」と訊かれたことも一度もない。
もしかしたら、最初からなかったのでは?
と思ってしまうぐらいに華麗にスルーされているのだ。
こんなに私が寂しく感じているのにだ。
でも、それがまたイイ。
私はこう思うことにした。
我が店の私が愛した “ソング・オブ・ジャマイカ” は、あの宮沢賢治先が紡いだフレーズ 「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」 を見事体現しているのジャマイカと。
彼のいた場所は、しばらくそのままにしておこうと思う。
寂しいと言いつつ、無くなったことによって生まれたスッキリ感があることは否定できないからだ。
そもそも、ものがあり過ぎのきらいがある我が DOODLIN’ BARBER SHOP。
ちょっと開放感が生まれたとポジティブに受け止めるとしよう。
彼亡き後に、そこに鎮座するのは、朋友 アラヤン が描いてくれたキッズ用補助椅子として代用しているスケートボード。
これもまた良しだ。
新たな物語が生まれたのだと思う。
それでは股旅。

これこそがベリー最高にちょうど良い塩梅

高田渡さんの『汽車が田舎を渡るそのとき』を店で流していたら、「どなたですか?とても良い声の方ですね」と十五年来のお付き合いであるお客さんが言いました。

 

 

これはですね……

 

 

なんつって得意げに、聞かれている物事の十倍ぐらいの情報をベラベラしゃべくる私。
これも床屋の良い光景じゃないかと思うようにしています。

 

 

ここで、そういうのってどうなのよ?
と考え出してしまうと果てしない思考の奈落の底に落ちてしまうので、あまり考えずに、良いじゃないそれでと収めるようにしています。
これが私が四十七年かけて身につけた圧倒的個人的かつ独りよがりな処世術です。

 

これでも、一応ご来店してくださったお客さんに合わせて店内BGMを選曲しているのです。
ときに的外れなこともありますが、それもまた狙ってたりもしてます。
若かりし頃は、無難な選曲をしがちでしたね。
でも、かといって今は攻めているわけではなく、なんだろな。
ともかく「さりげなく」に徹しています。
さりげなく、これが大事。

 

 

これ見よがしなのは醜悪。
気を使いすぎになってしまうのもみっともない。
ベリー最高にちょうど良い塩梅ってのをジャストミート出来るようになるのに、それなりに時間はかかりました。
だから、今回のようにお客さんから何かしらの反応があると嬉しいですね。
それきっかけで、お客さんの世界も広がるような、そんな気がしたりもしてね。
おこがましくも、そんなことを考えながら悶々と選曲しているのです。

 

 

先日納品された DOODLIN’ BARBER SHOP 移転三周年記念ステッカーとバッジ。
各3色ずつ用意したものをご来店してくださった方々に押し付けがましく貰っていただいているのですが、この色ばかりと偏ることなく、おしなべて満遍なく減っていっていると感じます。

 

 

これって不思議。
Tシャツなんかを作っても、圧倒的に偏るってあまりないんですよね。
まあ、そうならないようにちょっと工夫している部分もありますが、それでも不思議。
何しろ不思議。

その名もニールヤンガー

我が家に猫の “すなすけ” がやって来て二週間弱。
当たり前のように転がっていた日常風景の片隅に、いつもちらほら猫がフレームインして来るのが何とも新鮮なのである。
ふと気がつくとそこにいる。
日常に彩というか潤いというか和みというか緩さというか、そういうものたちが横たわるようになったようなフィーリング。

 

 

あらためて思う。
猫、いいぜ。

 

 

そうして今。
この日記を Neil Young 先輩の “Harvest” (もちろんレコードで)を流しながら書いているのだが、これまたいいぜ。
外のしとしと雨とやけにフィットしている音感。
いいぜ。

 

 

このアルバムは、1972年に発表されたわけで、つまりそれは私がまだ一歳だった頃なわけだ。
それを四十七歳になって、したり顔で聴いている。
いつの間にやら随分と生意気になったもんだなオレよ。

 

 

そんなことをぼんやり考えていたら、竹原ピストルさんの『石ころみたいにひとりぼっちで、命の底から駆け抜けるんだ』の歌詞の一節

 

 

♪あれが最初で最後のチャンスだったと勝手に決めつけて、ポケットに手を納めてしまってはいないか?
実力が足りないことを棚に上げて、図々しく “スランプ” などと口にしてはいないか?♪

 

 

がゆっくりと脳裏を駆けていった。
若かりし頃は世の中多少図々しくないとやっていけないぜ……などと嘯いていたが、今は違う。
今は謙虚でありたいと思う。
若かりし頃の図々しさは、若気の至りなんつって、心優しい人から見れば微笑ましくもあったりするが、中年以降の図々しさは醜悪だ。

 

 

でも、その若気の至りが、後々になって振り返ってみると輝かしく眩しかったりするから不思議なもんだ。
Neil Young 先輩は、この46年前に自身が発表したアルバムをどう思っているのだろうか。
きっと眩しいのだろうな。
眩しいから、もう聴き返すことはないのだろうか。
眩しいから、もはやもう自分の作品ではないような気すらして、憧憬のまなざしを浮かべながら耳を傾けるのだろうか。
そして、そんな Neil Young 先輩は、まだまだ眩しく輝いているから素晴らしい。

 

 

そんなわけで、私の中で何十回目かの Neil Young ブーム到来である。
そんな自分のことをニールヤンガーと呼んでいるのは、ここだけの秘密だ。

 

 

それではそろそろ股旅をする。