我が家に猫がやってきた

本日、我が家に猫がやってきた。
名前はまだない。

 

 

どんな名前にしようかと妻はいろいろ思案しているようだが、まだこれだという決め手はないようだ。
聞けば米国にルーツがある種のようなので、洋名が相応しい気がするが、僕としては猫は和名の方がなんだかちと抜けてて愛嬌がある気もする。

 

 

これから十数年のお付き合いになるとすると、僕が還暦を迎える頃にもいらっしゃるわけで、そうなると下に見てしまうような名前より、ちと尊敬の念を抱いてしまうような、そんな威厳すら感じさせるような名前もいいのではないかなぁとぼんやり思う。

 

 

連れて帰ったのはいいものの、やはり寂しさと警戒感でビクビクしているのがヒシヒシ伝わってくる。
猫がやってきて嬉しくて仕方ない息子に「シーッ!」と静かにするよう促すのはなかなか酷だ。

 

 

息子が猫を飼いたいとねだり出したのは、夏前ぐらいからだったか。
それがあれよあれよと言う間に、本当に飼うことになったのだから人生は面白い。
いろいろと素敵な偶然が重なった上での産物なのだろう。

 

 

一人家族が増えた。
そんな感じだ。
一匹ではなく、一人だ。
愛玩動物にそんな感情を抱くのは初めてだ。
それは多分きっと僕が家主だからなのだろう。
猫を迎えることによって、図らずも家主としての大いなる自覚が芽生えるのだから、これまた人生は面白い。

 

 

一人の猫がたくさんの素敵な物語を我が家に届けてくれることだろう。
楽しみだ。
そして、自分自身でも驚いているのだが、猛烈に可愛い。
現時点で、全然なついてやしないのに可愛いのだ。
これには参った。

 

 

それではマタタビ。

『二週間に一度の身だしなみ』  松浦弥太郎

とても素敵な一文だったので是非とも一読を。
こういう場所に出来たらな、こういう床屋になれたらなと思う。
自分の仕事を誇りに思える……
この一文に床屋のすべてが書かれている……
そんな良文です。
 
『二週間に一度の身だしなみ』
 
「さわりたくなる、いい髪型ですね」、はじめて会った女性にこう言われてどきっとした。
「どうってことのないただの七三です……」と照れながら答えた。
 
「とても清潔感があります」と女性は静かに微笑んだ。
心の中で僕は、「さすが米倉さん」とつぶやいた。
ほめられているのは僕ではなく、僕の髪を切ってくれている理容師の米倉満さんの仕事であると知っているからだ。
 
100年の歴史を持つ、銀座の『理容米倉』で髪を切ってもらうようになって十年ほど経つ。
最近になって、米倉さんは引退されて、僕の髪は同店の大嶋昭格さんに引き継がれた。
 
二週間に一度、髪を切っている。
 
人にそう言うと「大変ですね」と言われる。
「髪は伸びる前と、人に会う前に、さっぱりきれいに切れ」と父に言われて育ち、幼い頃から床屋という場所が大好き。
今でも暇さえあれば床屋に行きたい僕である。
大変だなんて一度も思ったことはない。
 
小学生に上がった日、「これからは一人で床屋に行きなさい」と父に言われ、通っていた銭湯の目の前にあった老夫婦が営む床屋に行くようになった。
 
床屋に行く日は二週間置きの日曜日だ。
必ず朝一番に行くというのも父の教えだった。
そのために早起きして、床屋の開店を待って入るのは習慣だった。
 
何より嬉しかったのは、「こちらにどうぞ」「これでいかがでしょう」「首はきつくないですか?」なんて、子どもの自分が、床屋では大人扱いされることだった。
 
髪型はいつもスポーツ刈りだった。
ある日、前髪を長くしている大人に憧れて、「前髪を長くしてください」と言うと、髪型は父と取り決めていたのだろう、「大人になってからにしましょう。短いほうがかっこいいですよ」と床屋のおじさんに諭された。
 
大人になった今、僕の髪型は短めの七三刈りだ。
この髪型は通い始めの頃に米倉さんが作ってくれたもので、二三度の試行錯誤があった。
 
映画『ゲッタウェイ』のスティーブ・マックィーンの髪型が好きで、ある日のこと、それを米倉さんに伝えたら、「はい、いいですね、考えてみましょう」と取り組んでくれた。
 
髪の質、髪の量、生え方、頭のかたち、顔のあれこれ、髪を切る周期などをよく知った上で、その人に一番似合う、もっとも自然な髪型に仕上げるのが、理容師の仕事であると米倉さんは言った。
 
それを聞いた時、マックィーンみたいになんて言ってしまった自分が恥ずかしくなった。
「もっとすてきにしましょう」と米倉さんは言って、僕の髪に櫛を入れ、はさみを動かした。
 
髪型というのは正面からの見た目と、横からの見た目と、後ろからの見た目、または斜めからの見た目などすべての方向から見て、バランスよく、きれいでなくてはならない。
本人としては、どうしても正面からの見た目にこだわるが、後ろと横からの見た目のほうが大切。
自分では見えない角度だからこそ、と米倉さんは言った。
 
時折、米倉さんは、少し離れて見たり、しゃがんでしたから見たりと、あたかも石を彫る彫刻家のようにして僕の髪を整えていく。
 
そんなふうにして髪を切ってもらっている時、僕は目をつむっている。
そうして、ゆっくりとシャキンシャキンと聞こえる、髪を切るはさみの音を聞いている。
なんて心地いい音なんだろう、といつも思っている。
迷い無くリズミカルに動かされるはさみと、そこに手のように添えられる櫛の感覚。
その数十分のひとときに、僕の心は静かに癒されていく。
 
朝起きて、シャワーを浴び、ひげを剃り、タオルで髪を拭く。
ドライヤーは使わない。
「つむじの場所がここだから、分け目はこのくらいの位置が一番きれいです」
と大嶋さんから教わったように櫛を入れる。
それだけだとビシッとし過ぎるので、手ぐしを入れて髪の身だしなみは終わり。
とても楽で、それでいてきちんとまとまり、自然であるのが嬉しい。
 
髪を切るのは、人に会うためのマナーであり身だしなみのひとつでもある。
いつ誰と会っても失礼のないように、いつも同じ長さの髪型で、簡単な手入れできちんと整っているのがいい。
だからこそ、髪型や髪の長さを気にしなくていい状態が保たれていることの気楽さは言うまでもない。
 
個人的には、ひとつも主張せず、どちらかというと地味な短めで、どんな服装にも合う、シンプルな髪型で痛いと思っている。
いつ会っても、同じ髪型で、同じ長さで、同じ雰囲気で、短くもなく長くもなく、清潔感があるというような。
 
どんなに忙しくても、二週間に一度、床屋で髪を切る時間だけは決して削らない。
身だしなみを整えるだけでなく、仕事からすっと離れて一人になり、きっちり一時間半、自分を思い切りリラックスさせるためでもある。
 
忘れてはならない床屋の楽しみには床屋談義がある。
 
小さな社交場でもある『理容米倉』の大嶋さんに髪を切ってもらいながら、銀座という街の移り変わりを語り合い、おいしい店や新しい店の情報を教え合い、ときに愚痴や弱音を聞いてもらったりというのも床屋ならではのこと。
 
床屋の椅子に座った途端、思わず「フー」とため息が出てしまうことがある。
「おつかれですね」と優しく言葉をかけていただき、「はい」と答える。
「すっきりさっぱりさせて元気にしましょう」と励まされ、僕は「お願いします」と言って目をつむる。
何も言わなくても、いつもと同じ長さで、いつもと同じ髪型に仕上げてくれる安心感は何ものにも代えがたい。
髪を切ると、何か他の不必要なものも切ってもらえるような気がしてならない。
 
髪をきれいに整え、床屋を出ると、僕はとびきり元気になっている。
誰に会おうとも気負いすることなく、また二週間がんばるぞと、にっこり笑顔でつぶやく
 
松浦弥太郎

そこにあったのは物語

こんばんは。
夕暮れ時に吹いた風にほんの少しだけ夏の終わりを感じました。
なので、こんな気分のときにはこれだねとハイロウズの “アウトドア派” を聴きながらこの日記を認めております。
相変わらずイイ曲だなと。

 

 

音楽は、かつての自分の心のときめきを真空パックしてくれています。
一瞬でその曲を初めて聴いたときの気持ちに揺り戻してくれます。
それはとてもステキなことなのですが、それと同時にいつまでも足を引っ張って大人にさせてくれないものでもあるのです。
でも、そんな曲は実は滅多にないもので、しかもそんなに好きじゃない曲だったりすることもあるから不思議です。
なんなんでしょうね。
まったくもう。

 

 

真空パックされているから、多分きっと七十代ぐらいになっても余裕で聴いているはずです。
それであっちゅう間に十代の頃に気持ちが揺り戻されちゃって、嬉しいような寂しいような哀しいようなくすぐったい心地になるのでしょうね。
でも、それイイな。
そんな感じになるんだったら悪くないな。

 

 

先日、家族でホームセンターに買い物行ったら、その場でご希望通りのレイアウトでレトロ風味の看板を描きますよってなポップアップショップが出店してましてね。
これはもう描いてもらうしかない!
と鼻息荒く注文いたしました。

 

 

DOODLIN’ BARBER SHOP にカタカナでフリガナを。
枠もつけて。
ベースのボードの色はベージュで。
あとはお任せで。

 

 

そんなオーダーをしました。
最初はネイビーのボードを選んでいたのですが、妻ちゃんに相談してベージュへと変更、出来上がりを見たらこれがジャストミートでしたね。

 

 

実にイイものを描いていただきました。
選色も任せて良かった。
こうなるともう、もうちょっと大きいものも、そして小さいものも描いてもらえば良かったなと思いました。

 

 

なんとなく注文して、なんとなく描いてもらった感じでしたが、僕は大いなる刺激を受けました。
こういう「仕事」のあり方。
描いてくださった方の佇まい。
なんかこう、良かったんですよ。いろいろと。

 

 

そこにあったのは「物語」でした。
大事ですよね、物語。
それを感じられるかどうか。
それがあるかどうか。

 

 

ある意味、何もかもがそれ次第なのかも……だなんて感じ入る夜であります。

 

 

さてと。
何か映画でも観ようかしらん。

子育てはピッチャーじゃなくてキャッチャーなんだぜ

おはようございます。

 

 

今朝、この日記を書くのと店で使用しているタオルをたたむのと、どっちを先にするか悩んで迷った結果、やはりタオルからだなとビシッとたたんでからPCに向かった次第であります。

 

 

このタオル。
実は昨夜一度全てたたみかけていたのです。
でも、ミッションコンプリート寸前で我が家の五歳児に襲撃を受けまして全部バラバラにされてしまったのでした。
怒涛の週末営業を終えたばかりだった私は「ほほ〜なかなかやるじゃないか!」と息子の遊んで欲しいビームを上手に受け止めることが出来ず、ちょっと待ってくれよ……マジですか……とほほ……と凹んでしまったのです。

 

 

こういう時、己の器の小ささを痛感します。
息子は、そんな私を見てちょっと寂しそうにしておりました。
たたみかけのタオルを崩されたからって、そんなの全然大したことじゃないぜとグッスリ眠った翌朝にはそう思えるのです。

 

 

少し疲れているからってなんなんだお前はっ!
そう自分を叱咤したいです。
疲れると品のない自我が出てきやがるから嫌ですね。
まだまだ魂の修行が足りんなぁと嘆息が止まらないわけです。
息子はそれを試しているのですよ。

 

 

「どうだ?近頃のお前は?
歳くった、丸くなった、錆びただのといった言い訳ばかり口にしてないか?」

 

 

と耳元で囁かれいるような気がしてならないのです。
言うならばある意味息子は「師匠」なのです。笑

 
昨日は夕飯の支度で立て込んでいたから、たまたまのタイミングで私がタオルをたたんだのだが、いつもタオルを洗濯してたたんでくれているのは妻さんなのです。(いつもありがとう!)

 

 

妻がたたむときも息子は襲撃するのだろうか……
その時妻はどのように息子をさばくのだろうか……

 

 

後で訊いてみるとしよう。

 

 

そんなわけで今日は定休日。
思いっきり息子の相手をしてやろうと思います。
いや、違うな。
息子に相手してもらうのですな。

 

 

子育てはピッチャーじゃなくてキャッチャーなんだぜ……

 

 

この言葉を胸にね。

夏のぬけがら

天気予報が云うには、今日からまた猛暑がぶり返すらしい。
けれども二日過ごしやすい涼しい日を過ごした今は自分の中で夏は終わり始め。
云うならば夏のぬけがらって感じだ。

 

息子が飼っているカブトムシも活動量が一気に減ったと感じる。
息子の中の、カブトムシ&クワガタ熱もやや下がり気味。
それに変わって、カマキリ熱がグイグイと上がって来ている。
この辺りにも夏の終わりを感じる。
こうなるともう今後は残暑と言ってイイだろう。

 

でも、こう思い始めた途端、過ぎ去りつつ酷暑デイズがちょっと名残惜しい。
今年の夏の常軌を逸した暑さは強烈であったが鮮烈でもあったのだろう。
いつまでも「2018年のあの夏はとんでもなく暑かったな……」と記憶される夏になることだろう。

 

今ふと思い出したのだが「白いものは汚れが目立つから避けたほうがいいかな……」と考えがちだった僕に「汚れが目立つからイイんじゃない!」と考える妻の思考回路は鮮烈だった。
彼女の大いなる魅力の一つだろう。
凝り固まったものの考え方や見方も、少し角度を変えて捉え直すことで、ブワーッと世界が広がる。
妻と接していると、自分もいつかこういう人間になりたいと思わせられるから悔しい。

 

読みたい本と観たい映画がたまりっぱなしだ。
一つ一つクリアしていくしかないな。

 

それではそろそろ虫採りに行ってきます。