面白ければ、それで良し。

近頃なんだかやけに THE STONE ROSES が来ているなと感じている。
店内 BGM としてもよく流すし、ネット上や、お客さんとの会話でもちょいちょい話題に上がる。
このコロナ渦中の今、なんだかグッと来させる何かがあるのだろうか。
うん、きっとあるんだろうな。

で、僕はこのバンドの音はもちろん、そのジャケットのアートワークも好きなんだが、これをデザインしているのが
メンバーであるジョン・スクワイア(G)だと云う衝撃の事実を知ったのは、今日の朝だったんだった。

好きなのになぜ知らなかった?

賢いアナタは、きっと嘲笑するだろうね。
でもさ、人生にはさ。
好きだけど、好きなのに何故か何故だかスルーしちゃうってことがあるじゃない?
きっとわかってもらえると思うけども。
ない?
ならゴメン。

格好いいジャケットだな〜
と思いつつ、それを描いたのが誰か……

って考えなかったわけじゃない。
きっとメンバーの友人か何かが「ジャクソン・ポロックみたいな感じで!」って頼まれて描いたんだろうな〜
ってぼんやり思うぐらいに止まっていたのだ。
何かと無闇矢鱈に掘り下げがちなタカサキテッペーであるはずなのに、なんでかな……
我ながら不思議である。

ジョン・スクワイアは今、画家としての活動に主軸を置いているそうだ。
2009年には、東京でも展覧会を開催したらしいので、いつかまたやってくれることを期待する。
ジャクソン・ポロックの影響を受けたジョン・スクワイアの影響を受けて、オレもアクション・ペインティングで描いてみようかしら……

で、そこに「DOODLIN’ BARBER SHOP」と屋号を入れて看板にするのも面白いな〜
なんて発想が生まれるのも、ありだ。
面白ければ、それで良し。
うん、ホントちょっと本気でやってみよう。
この気持ちが冷めないうちにね。

物語はまだ始まったばかり

ここ最近ハマっているのが、この『THE WORLD BARBER TOUR』という本なのだ。
世界38ヵ国・157件の理容室の写真と手記から読み解く、その地の歴史と文化。

解説にある「理髪師は過去から現在を繋ぐ、生き証人でした」の文言にも痺れる。

日々何気なく営んでいる店であり仕事だが、ひょっとしたら自分もちょっとは生き証人になれたりするのかも……なんて過ぎた野心も生まれたりする。
ワクワクするぜ。

そして、この本が僕の手元に届いた経緯がまた胸熱なのである。
かつて雇われ店長をやらせていただいていたカリプソ・クロニクルの常連であった俳優の松田洋治さんからいただいたものなのである。
そう、これは自慢だ。

当時、店の近所にお住まいだった松田さんが引っ越されて以来だから十数年ぶりの再会になるのかな。

松田さんが近くに用事があったからと寄ってくれて、「この本はやっぱりテッペーくんに読んでもらいたいなと思って!」と持って来てくれたのだ。

松田さん、この本猛烈に面白いです。
ありがとうございます♪

よし、じゃあいつかDOODLIN’ BARBER SHOP も、こういう本で紹介されるように頑張るぞ!

と気合いを入れても、すぐさまお客さんが来てくれるわけではないのが、この稼業。
今の決心と頑張りの成果が出るのは数ヶ月後なわけで、今目の前にある仕事を精魂込めてこなすしかないのだ。

そして、その答えは風の中。
どう転がって行くのかは全くの未知。
こう考えるとなかなかのハードボイルドな仕事だなぁと嘆息するばかり。

なのだがココは得意の呪文「そこがいいんじゃない!」で楽々クリアするとしよう。
そうやっているうちに、いつの間にやらちょっとそんな仕事を生業としていることが誇らしく思えて来るのではないかと期待している。

今を作っているのは過去の自分。
これからを作るのは今の自分なのだ。
まずは自分自身の生き証人になろう。
周囲はそれからだ。

なんつって。

ねえ外は春だよ

息子の飼っていたヒガシニホントカゲの“イカボンド”が逝ってしまった。

ちょっと弱っているな〜と心配していた、シッポの短い“トガボンド”の方はいつの間にやら元気溌溂になり、元気だったはずの“イカボンド”が天に召される不思議。

これがあれか。
世の無常ってヤツか。

息子は「またトカゲ獲るぜよ!」と息巻いているが、息子よゴメン。
父さんは、なんだかやるせなくて気が乗らないぜ。

歳を重ねると、どうも手前勝手に眼前で起こる事象に意味を持たせたがるようになる。

とここまで書いてふと気付いた。

今自分がこうやって書き綴っていること、それはまさに吉田兼好先輩が言ってたアレなんじゃないかと。

先輩はこう言ったね。

“つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ……”

現代語に変換すると

“することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、(思わず熱中して)異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ……”

って感じか。

そんなに手持ちぶさたでもないし、異常なほど狂ったような気持ちにはなってないけども、まさにこの感じじゃないかなと思った。
そうか。
オレは今、吉田兼好化が進んでいるんだな。
徒然し始めたってことなのか。

正直、書かなくてもイイ。
書かなきゃならないわけじゃない。
でも、書きたいのだ。

こうやって書き綴ることによって、なんか浄化されるっつーか、バランスが取れる感じがするのだ。

十一月に息子が植えたチューリップが咲いた。

いつの間にやら、外は春うららかだ。

優しいから好きなんだ

1000円のエコバッグを買ったとして、元を取るにはレジ袋一枚3円と考えると買い物333回分なのだよ……どう?

と得意げに話している人をテレビで見かけた。
こういう違った角度から物事を見るって、大切なことだろうし、初めて聞いたときはガビーン!マジか!
となるけど、なんだかちょっと寂しくなるのは何故だろう。
なんだか胸に冷たい風がピューと吹き抜けで行くのだ。

いや、それって肝心なのはそこじゃないんじゃない?
そこも大事だけどさ……
と思うのだ。
それを言っちゃおしまいなんじゃ?
ってヤツだ。

こういう気分になったとき、私は妙にパンクロックが聴きたくなるのである。
10代の頃からずっと聴いている反逆の音楽だ。

あの頃は、Don’t Trust Over Thirty!なんつって、ムーンライダーズを爆音で聴いていた。
そんな痛々しいヤングボーイだった私もいつの間にやら図々しくも半世紀を生きようとしている床屋のオッサンになり、今となっては、むしろ Don’t Trust Under Thirty だぜと吠えているのだから人間なんて、やはりラララだ。

見渡せば、自身の容姿も含め、あの頃と圧倒的に変わってしまったことばかりだが、頑なに全然変わらない、変わろうともしないものが芯の部分にあったりもする。
何か寂しい気持ちになったときパンクロックを聴きたくなるのも、あの青春時代の名残りだ。
パンクが脳内で流れた瞬間、私はあの日あの時に一瞬で立ち返れるのだ。

でも歳を重ねてわかったことがある。
それは年齢は関係ないなってこと。
私が寂しくなってしまうようなことをドヤ顔で宣う輩は老若男女問わずいるよなってこと。

まぁだからどうした?
って話なんだが、私はこういう無駄話が大好物なのである。
無駄話をするために生きていると言っても過言ではないくらいに。

パンクロック、優しいから好きです。

それはまだ死んでいない

“サブカルは死んだ。パンクも死んだ……”

その帯に書かれた衝撃的な文言を見て、これは読まなければならないなとゲットしてみました。

その本のタイトルは『オフィシャル・サブカルオヤジ・ハンドブック』
著者である佐藤誠二朗さんは私より二つ歳上で、私がかつて貪るように読み漁っていた雑誌『宝島』『smart』の編集者だっつーんだからアガる。

アガる?何が?

もちろんテンションがです。

あの日あの頃、我々の世代のボンクラたちがどうにも拗らせたまま、来てしまったアレやコレやのことが書いてあるに違いないと勝手に期待しているのです。

サブカルもパンクも死んでないと思い込みながらも、心の奥底では「やっぱり死んじゃった?だよね」なんて思っているのを見透かされたような恥ずかしさと清々しさがあるわけです。

まぁ何しろボンクラだったなと我ながら思うのである。
こういう本が出てくることによって、あのしょうもなかったあの頃が総括されるのでは……とちょっとだけ期待しているのです。

しょうもないボンクラ……自虐的に響いているかも知れないけども、それがなかなか誇り高きものだったりするのよね。

五十路突入前にイイ本に出会えました。
ラッキーだな。

なんか笑われるかもだけど、僕にとってこの五十代になるってのは、とってもデカいことでして。
三十代、四十代になったときと比べものにならないくらいなんですよ。

なんでだろ……

全然答えが出てこないです。
でも、こういうのって答えが出ない方が、本当なんだろうなと思うのです。
でも答えを探す。
答えなんかなくても探す。大事なのは「探すこと」なんですよね。

あ、でもサブカルもパンクも死んでないですよ。
これはホント。