泣いてる人 笑ってる人が歩いてく  北風の中 時代は変わってゆく

ふと思いついて『蛭子能収のゆるゆる人生相談』を手に取ってみた。
帯には「きれいごと、ゼロ」と書かれてて、これはもう清々しいぐらいの蛭子節全開なのではないかと期待している。

 

 

今なんだか、そういう気配の物事を欲している自分がいるようなのだ。
そして、数ページめくってみたのだが、やはりそこにあったのは「そうくるか〜!」の連続で、蛭子さんはそんな気ないのだろうけど、思いっきり常識をぶった切ってて痛快だった。

 

 

蛭子さんは、僕が生まれ育った町にいっとき住んでいたので、しょっちゅう町中で見かけた。
でも、一度も声をかけたことはないし、誰かに声をかけられているのも見たことはない。
あまりにも普通にそこにいたからだと思う。
そんな蛭子さんの言葉だからだろうか。
妙に変に絶妙に響くのだから面白い。

 

 

これまたふと思いついて、仲井戸麗市先輩の『時代は変わる』を昨日から何度も聴いている。
師走だからだろうか。
クリスマス・イブだからだろうか。

 

 

♪家族のこと 友達のこと考える
仕事のこと 生活のこと ふるさとのこと考える
愛する 愛されること 生きるということ考える
そして時々考える…….死ぬということ…….

生まれてくる子供はみんな天使さ お偉い方々の子供も犯罪者の子供も
貧しき人 裕福な人 どんな肌の色でも
生まれくる すべての子供達に祝福あれ!

悲しい別れがありました 奇跡の生還 新しい出会いもありました
明日を生きてく君がいる 生きてく君の明日がある

泣いてる人 笑ってる人が歩いてく
北風の中 時代は変わってゆく♪

 

 

そういえば、昨日放送された『東京リボーン』が面白かった。
大友克洋さんの言葉が響いた。
『下町ロケット』の最終回も、それはもう面白かった。
最終回として考えると、これってどうなの?って終わり方だったが、ちゃんと年明けのスペシャルで大団円を迎えるようだし、それを楽しみに今日を生きようと思う。

 

 

今日は北風が強い。
平成も来年で終わる。

 

 

泣いてる人 笑ってる人が歩いてく
北風の中 時代は変わってゆく

 

 

メリークリスマス。

師走的空気感に包まれて

遅ればせながら、先々月に購入したモミジシシガシラが紅葉し始めた。
それを見た息子は、たいそうこれが気に入ったらしく「オレが大きくなったら、これ頂戴。可愛がるから。」と言った。
「可愛がる」って表現が面白くて、なんだかそれが嬉しくて「イイよ」と約束した。

 

 

野暮な物言いになるが、息子の感性の成長を感じる機会が多くなった。
コントロールする気はサラサラないが、父親のエゴで「こんなのイイんじゃない?」と方向付けはさりげなくしている。
そんなの全然無視される場合がほとんどだが、時折「お?」と思わせることを言い始めるから面白い。

 

 

こんなことを書いてたら、ふと本田宗一郎さんの言葉を思い出した。

 

 

『世間では、大人の言いなりになる子や、大人の考えの枠から飛躍しようとしない子が「いい子」であり、自分の意思を堂々と主張したり、個性的な考え方や行動をする子を「悪い子」というレッテルををはりがちである。

けれども私は逆だ。
世間でいう「悪い子」に期待している。

なぜならそういう子供こそ個性にあふれ、可能性に満ちた本当の意味の
「いい子」だからである。』

 

 

素晴らしい。
こういう心構えでいたいものだ。(坂口安吾さんも著作で同じようなことを書いていた)
しかし、ワイルドさ溢れる息子の日々の行いを見て、脳内でこの言葉を諳んじたりしてはみるのだが、なかなか徹底が出来ずにすぐに感情的になってしまうってのが本当のところだ。

 

 

でも理想を掲げるのは悪いことじゃないはずだ。
そうなれたらイイなぁって思いは、ちょっとだけそうなりたい自分に近づけるはずだから。
ルルルラララ。

 

 

《お知らせ》
DOODLIN’ BARBER SHOP 年内の営業は31日まで。
(31日は月曜日ですが営業いたします)

新年は5日からになります。
29日、晦日、大晦日の予約が結構埋まって来ておりますので、お時間の都合がわかりましたらお早めのご予約をお勧めいたします。

DOODLIN’ BARBER SHOP 店主

ありふれた奇跡

近頃よく店内で流している福居良さんのアルバム『Scenaery』へのお客さんたちの反応がすこぶる良い。

 

 

YouTubeに「あなたこんなの好きなんじゃない?あはん?」とドヤ顔で薦められて聴いたのが今年の初めぐらいのことか。
どれどれそんなに言うなら聴いてやるぜとポチッとした瞬間に、ど頭かち割られるような衝撃を受けて、これはもうレコードで欲しい絶対欲しい!となったんだった。

 

 

それから、すぐさま鼻息荒く注文したものも、なかなか手元に届くことなく半年が過ぎ、やっとやって来てくれたのが今夏の初め。
待ちに待った甲斐があったもので、やはりレコードで聴くそれはまた新しい衝撃を与えてくれたんだった。
その疾走感とライブ感、あたかもそこでたった今演奏しているかのような臨場感がそこにあったんだった。

 

 

けれども、これは多分きっと相当な独り善がりな思い入れがもたらしたものなのだろうと思う。
でも、それでいいのだ。
それがいいのだ。

 

 

この福居良さん。
一昨年に六十七歳で亡くなっている。
この『Scenery』が発表されたのは1976年。
福居良さん、二十七歳のときのデビューアルバムである。
驚かされるのは、福居さんが初めてピアノに触れたのは二十二歳だったということ。
しかも独学で。

 

 

たったの五年でここまでの演奏が出来るのだろうか。
私もちょいとピアノをかじったことがあるからちょっとだけわかるが、これは信じられない神業だ。
それほど素晴らしい演奏なのである。
上手いだけじゃない。
いやもしかしたら、上手くないのかもしれない。
でも、ここまで心を昂らせてくれる演奏はそうそうない。
何がどうなったらこうなるのだろうか。

 

 

ここに至るまでそれこそ命懸けでピアノに向き合ったのだろうと思う。
気が遠くなる程、ずっとずっとずっと弾いたのだろう。
それでも、だからと言って誰でも出来る所業ではないが、時代とか空気とか環境とか、いろいろとないまぜになって奇跡を起こしたのだろう。
そんなことを想像していると、うっすら涙がこぼれそうになる。
我ながら気持ち悪いが、もういいオッサンなんで、これでいいと思っている。
多少気持ち悪いくらいがベリー最高にちょうど良い塩梅なのだ。

 

 

オッサンは甚だ気楽なのである。

 

 

何事もキーポン

学生時代からの友人(元パンクス)が、自身が勤める老人介護施設で老人ロック合唱団を結成しようと奔走している。
(傑作ドキュメンタリー『ヤング@ハート』に大いに刺激されてだ)

 

 

まずはこんな歌を歌ってみませんか?
と云う感じで、お爺さんお婆さん方の前で歌ってみせたところ、これが大受け。
中でもとりわけ、ザ・ブルーハーツの歌が好評だそうで「これ、あなたが作った歌なの?」「素敵な歌詞ね」「新鮮だな」「息子がよく聴いてたな」「メロディーがいいわね」と絶賛の嵐。
それならもう、いっその事ブルーハーツの曲だけに絞って、まずは始めてみようと云うことになったのだそうだ。

 

 

わかりやすい言葉、すぐに口ずさめるメロディー、そしてそこにある真っ直ぐなメッセージ性は、うちの息子が惹きつけられたように老人たちの気持ちもすぐに掴んだようだ。
我々が思っている以上に、老人たちの感性は柔軟で、好奇心も旺盛なのかも知れない。

 

 

ザ・ブルーハーツの中心メンバーだった、甲本ヒロトと真島昌利は今 “ザ・クロマニヨンズ” で活動している。
このクロマニヨンズ、何となくは耳を傾けてはいたのだが、あまり私の中に入ってきてはいなかった。

 

 

まあ、いいよね……
アルバムも、全部は聴くことはないか……

 

 

そのぐらいのスタンスで対峙していた。

 

 

それが突然この頃グイグイ入って来るようになったのだから、人生というのはわからないものである。
息子とのドライブでのBGMにと、クロマニヨンズの “Oi! Um bobo” を気まぐれに流したところ、息子と二人でガツンと打ちのめされたのだ。
いきなりに。
突然に。
雷が落ちたように。

 

 

それから、クルマを走らせるときのバックグラウンドミュージックは欠かさず “ザ・クロマニヨンズ” をナイスチョイスしている。
前述の元パンクスの友人にお願いして、持っていないアルバム、レコードで所有しているアルバム(“ザ・クロマニヨンズ” のアナログ盤にはダウンロードコードは付いてないのだ)のCDを貸してもらった。

 

 

どれもいい。
なんかいい。
たまらなくいい感じだ。
何これ?
なんでなの?

 

 

 

三十数年前、中学生の頃から夢中で聴きまくっていたザ・ブルーハーツ。
それから、ザ・ハイロウズ → ザ・クロマニヨンズとバンドを変えつつも、ずっとずっと歌声を届けてくれる甲本ヒロト先輩と真島昌利先輩。
しかも、自分の息子まで好きになりかけている。

 

 

これってすごいことだなと今あらためて思いっきり感じ入っている。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た後に、クイーンをずっと好きで良かったと思ったのと、同じようにずっと好きで良かった。
これもまた意味は多少違えど “継続は力なり” ってことなのだと思う。

 

 

何事もキーポン。
これが大事。
これが大切。
ここに価値が生まれる。

 

 

股旅。

なりたいようになれるものだ

老眼鏡がまた逝ってしまった。
でも、また同じものを使うことにした。
若かりし頃の自分だったら、どうせならと違うものにアタックしていただろうけども、四十路半ばを過ぎた今は冒険をしなくなった。

 

 

気に入ったものを使い続ける。
たとえそれが壊れたととしても、同じものを手に入れる。
そんな風に出来たら良いなと思いつつ、これがなかなか出来ずにいた。

 

 

その対象となるものが老眼鏡がとなるとは予想していたなかったが、老眼鏡ってのが良い塩梅だなと我ながら思う。
いや待てよ。
すでにワークキャップも同じものを使い続けていたことに今書きながら気がついた。
おっと、そういえば仕事用のシューズも adidas の campus をここ数年潰れたら履き替えを繰り返して使用しているな。

 

 

もし、なりたい自分に少しずつなれているのなら、それは幸福なことだなと思う。

 

 

画像左は、デストロイされた老眼鏡を着用したもの。
心なし、口角も下がり気味でテンション低めな表情だ。
画像右は、新しい老眼鏡を着用している。
こちらは、そこはかとなく嬉しそうな雰囲気である。

 

 

人の心というものは、誠に正直なものだなと嘆息するばかりのエブリデイだ。