真夏の猫

ちょっと不思議な夢を見た。

夢の中で私はまだ中学生で、何故か
母親が田中裕子さんで父親が寺尾聰さんという設定。
画質がフィルムで撮った映画のような質感で、どうやら私は主人公のようだった。

父である寺尾聰さんが亡くなり、私と母である田中裕子さんは長年過ごした家を出なくてはならなくなった。

経済的な事情があったのだろうか。
母は、住み込みで働ける旅館へ。
私は、電車で一時間ほど離れた親戚の家に引き取られることになった。

その際、飼っていたネコを母も私も連れて行くことが出来ず、泣く泣く置いていくことになってしまった。

私は心配だった。
とても臆病なネコだったからだ。

それから数ヶ月ほど経った夏。
久しぶりに母と会うために電車に乗っているとき、差し掛かった橋の上から外を眺めていると、川原にうちのネコがいるのを見つけた。
私が暮らした家と今世話になっている家との、ちょうど中間ぐらいに位置にある橋だ。

どうして、こんな場所に?

と思ったが、とりあえず元気そうには見えたので安心はした。

その話を母にしたら、あの橋の近くにある神社に住み着いているらしい。
何匹かの仔猫と真っ白で美しい雌ネコと一緒にいるらしいという話を、かつてのご近所さんから聞いたとのこと。
今度、行ってみようと思っているのよ……と田中裕子さんは優しく微笑んだんだった。

帰りの電車の中。
その橋を渡るとき、不意に涙が溢れ出した。
涙が止まらない。
車窓の景色も周囲もかすんで見えない。
自分が何処にいるのかもわからない。
私はオンオンと声を上げて泣いたんだった。

と、ここで目が覚めた。
意味なんて無いだろうけども、これはきっと大事な夢だと思い、私はすぐにスマートフォンのメモ帳に今見たばかりの夢について細かく書き留めたんだった。

なんだろ。
なんだかちょっと気持ち良かったのよね。
夢の中ではあるけれど、思いっきり泣いたことが、泣けたことが気持ち良かったのよ。

ちょっと調べてみる

ネットを徘徊していると、ちょくちょく「ぬ?」と頭をかしげてしまう語句に遭遇するのです。

それはカタカナ言葉である場合が多く、僕的には何だかスカした感じがして “別に理解出来なくてもイイんだぜ” とスルーして、何となくわかったフリをしてその場しのぎをしてしまいがちなのですが、それもどうも向上心に欠けているし、ナイスミドルの立ち居振る舞いとは程遠いんじゃないか?どう?と思い直しているところなのです。

で、早速一番気になっていた『ダブルスタンダード』を検索してみました。

ダブルスタンダードとは、「二重規範」「二重基準」「二律背反」とも言い、対象によって適用する基準を変えること。例えて言うと、“自分と相手が同じことをしたのに、相手を許さずに自分だけ許す“ような考えで、略して『ダブスタ』と言ったりするらしい。

イイね、ダブスタ。何だか響きが良いね。

つまりこれは「オレは良いけど、アンタはダメ!」って、所謂ジャイアン的なアレですね。なるほど、これがダブスタか。

あんたそれダブスタだぜ!

と言われたくないな……と思ったのですが、息子と過ごす毎日の中で、自分がダブスタばかりなことをしていることに気づきました。でも、それは大人と子供だし、しょうがないんじゃ?とも思いますが、ちょっと意識してダブスタしないよう気をつけましょうかね。

ダブスタしない……使いかた間違ってます?

ここまで書いて気づいたのですが、「ダブルスタンダード」って言葉を僕が使うことはないですね。どうにか日本語で伝えるようにする。その方が「知的」なような気がしませんか?しませんね。

何処かの都知事が、やたらカタカナ言葉を使うイメージなのですが、アレって何か狙いがあるんですかね。
サステイナブル?ダイバーシティ?フィンテック?
気持ち良いぐらい珍紛漢紛です。それより、“ちんぷんかんぷん” って、漢字にするとこうなるってことの方が興味津々だしワクワクしますわ。

あ、でも「ディスる」は好きです。

日々に転がる不思議たち

昨日のことだ。
トイレに掲げられたカレンダーを見て愕然とした。
もう五月も終盤だというのに、カレンダーがまだ四月のままだったからだ。

あまり自覚はしてなかったが、まぁつまりこの五月はそういう日々、まあまあ慌ただしい日々だったんだなと悟ったんだったんだったん。

毎日用を足しながら、何の気なしにカレンダーを眺めていたはずなのに、そこを気にもとめなかった。
我ながら不思議である。

日々の習慣となりつつある御近所散歩をしてても、“あれ?こんな家、こんな場所あったっけ?” なんて思うことはしょっ中である。

昨日はなかったのに、突然現れた!スペクタクル!
なんて一瞬思ったりするのが楽しい。

つまりこういう事毎がアレか。
所謂 “盲点” もしくは“死角” ってヤツなんだろうな〜と推測する。

盲点 & 死角。
これは仕事をしてても、人間関係においても、記憶の中でもあるよな〜と嘆息する。
何でそれが目に入らなかったのかわからない。
説明出来ない。
そこに理由があるような気がしないでもないが、全然意味なんてないようにも感じる。
ホント、これって何なんだろうか。

今朝、不思議な夢を見た。家族で超大作映画を観に行ったのだが、突然話の途中でブツっと終わりエンドロールが流れ始めたのだ。
キョトンとしながら劇場を出て、妻さんや息子と無言で顔を見合わせたところでブツっと目が覚めた。

この夢、何かしらの意味があるのだろうか。
うむ、完全にないな。

さてと『ゴリラーマン40』でも読んで自らを鼓舞するとしようか。

というわけで、おはようございます。
今週は忙しくなりそうだ。
ありがたし。

それでは股旅。

このヘンテコな気持ちは何なんだろう

今日は良い陽気なので、朝から草刈りした。
いつもやり過ぎてクタクタになってしまうので、ちょっと物足りないくらいでやめといた。

iPhoneで極々微音に調整したBGMを流しながらする草むしりがまた格別で、今日は阿部海太郎を聴きながら作業した。
なんだかちょっと良い休日を過ごせてる気になった。

グローブが破れてしまったので、近所のワークマンまで、ほてほてと歩いて行った。
そしたら定休日でガックシとほほ。
仕方ないぜと嘆息して、帰り道に通りかかった野菜の無人直売所で朝採れたばかりのタケノコを買った。
刺身でも食べられるらしい。
100円也。

それからポーチで読書。
先日届いて、まだ開いてなかった『ひらやすみ』の三巻を読んだ。
これが凄く良くて、読んで良かったと思った。
こういう空気感、好きよ。

読んでるうちに暑くなって来たので、この日記を書くことにした。
BGM は、LITTLE TEMPOの『山と海』をナイスチョイス。
今日の陽気とか気分に、ここまでベストマッチな選曲もないよなぁと独りほくそ笑んだ。

そういえば先週、五十一歳になったんだった。
新調した老眼鏡の度数は “2.0” 。
まぁ年相応なのかな。
若い頃には考えられなかったことなんだが、私はこの老眼鏡を使用する自分がちょっと好きだったりする。
何だかいろいろと見え難くなって来ていることに、ちょっとだけ喜びを感じちゃったりしている。
このヘンテコな気持ちは何なんだろう。

営業中に流すBGM も、ほぼレコードになった。
いちいち面倒なんだが、それが良い。
“いちいち” とか “わざわざ” とか、そういうのが楽しかったり嬉しかったりする。
“遠回り” とか “寄り道” とか、そういうものにワクワクしたりする。
このヘンテコな気持ちは何なんだろう。

爆発的にさりげなく

おはようございます。
本日、無事五十一歳にならせていただきました。
あのウツボ野郎な私がこんな年齢にならせていただけるなんて世の中捨てたもんじゃないです。
何もかもが輝いて見えるのは幻なんかじゃない。
人生は夢じゃないですな。
私たちはハッキリと生きていますね。

今、夢中で観ている海外ドラマの主人公も劇中で、五十一歳になりました。
これも何かしらの “縁” だと思います。
そういう流れに身を任せつつ、時には逆らいながら、時には違う流れに乗り換えたりもして、ゆらりゆらゆら漂えど沈まず。
そんな感じで、これからを生きていけたらと思います。
そんなわけで、とりあえずやっぱりあれですね。
皆さん、ありがとうございます。
この一言に尽きちゃうんだぜ〜って感じです。

五十一歳の誕生日。
妻さんから『岩波 国語辞典』を戴きました。
妻、相変わらずナイスチョイス!
ありがとう!

これはもう一生もんですな。
ちょっとここ最近、自分に明らかに足らない部分を感じ取っていたんです。
文字通りの「語彙」と人生における「語彙」。
まだまだ全然足りないなと。

で、この国語辞典。
簡単に検索で片付けたりせず、自分で辞書を引くこと。
これが大切なんだぜ……という妻さんからの粋なメッセージだと勝手に思いました。
まずは手を動かせってことですよ、多分。
それから、言葉をもっと大切にしなさいってことですよ、多分。
で、まだまだ学ぶことを続けるべし、ってことなんですよ。
全部、多分ですが。

でもね。
きっと多分、こういうことがこれから生きて行く上で重要なのだと思います。
わからなかったら、まずは辞書を引け。
そこにヒントがある。
そこに答えはない。
答えを見つけるのは自分自身なんだぜ。

なんつって。

廻りに溢れる愛を感じます。

2022年5月4日

DOODLIN’ BARBER SHOP 店主 高崎 哲平 拝