STAY HOME STAY YOUNG

どうもこんにちは。

私事で大変至極恐縮ではありますが、本日景気良く四十九歳にならせていただきました。こんな御時世だからこそ誕生日とか大切にしたいなと思います。

しかしまあ、こんな私ごときが四十九歳ってそれってどうなのよ?来年五十歳?冗談だろ、コンニャロ!って気分満載のまま、一年一度の誕生日を迎えられた幸福を噛み締めております。

ともあれ感謝。この一言に尽きます。おっと、その前にもう一言。ともあれコロナ、ふざけんな。

こんなとき、どんなものと一緒に写真を撮ろうかしらん……ルルルラララと数秒思案してパッと出てきたのが、このアルバムでした。

『YOUNG AND PRETTY』

まさに今の気分、今の時世、今の流れ、今の「これからこうなってくれたら良いな〜」って思いが結晶されたようなタイトルであり、アルバムだなとビビーンと来まくったのでした。

三十数年前、高校生の頃からずっと愛聴し続けているアルバム。それをこうやって一年一度の誕生日に取り上げる。五十路手前になって、何を青臭いことをと揶揄されるかもですが、もう良いんです。そういうの、もう良いんです。いい意味で厚顔無恥になって来ているんです。だから、もうそういうの気にしないんです。好きなものは好きと言える気持ち、抱きしめていたいなと。

ヤングでプリティーでありたいなと。あ、これ心持ちの問題ですよ。若作りしちゃうぜってことじゃないです。可愛いオッサンになりたいわけではないですよ。

STAY HOME しながも STAY YOUNG でありたいなと。ついでに可愛らしくありたいなと。

そうそう。近頃よく感じる感覚があるんです。それは「いつも神様が見ている」って感覚です。宗教的にどうのこうのじゃなくて、日々の行いを誰かが見ていてくれているってことです。

いいことも悪いことも全部引っくるめて、その善悪を判断するとかそういうレベルではなく、ただ見てくれている。そんな感覚です。その「まなざし」を「神様」とたまたま呼ばせていただいているだけなんです。全然分かりにくくてどうもすみません。

回りにあふれる愛があることを感じます。ありがとうございます。

DOODLIN’ BARBER SHOP 店主 高崎哲平 拝

わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。

何やら世の中では
「九月入学ってのはどうよ?」
みたいな寝ぼけた案が出てきているようだが、四十路後半の床屋のオッサンは断固反対なのである。

その理由は多分に情緒的なものだ。日本も明治時代までは九月入学制だったらしいが、そこから積み上げられてきた歴史がある。やはり、卒業や入学は春がいい。入学式の家族写真は桜舞い散る中なのが良い。出会いと別れの季節は春であるべきなのだ。歌でも小説でも映画でも、ずっとそう描かれてきたのだ。メリットとかデメリットだとか海外がどうだとかは知らん。長年日本の民の中でずっとずっと積み重ねられてきたロマンティックを大切にしたいのだ。

だけどもだけどだ。世の流れで、九月入学になったとしたらちゃんと受け入れる。
「今こんなだからしょうがないよね〜」
なんて、ただただ流されるのが嫌だから、こうやって主張しているだけだ。

数年前、魚河岸が豊洲に移るってなったとき「築地」ブランドが無くなる……だなんて嘆かれていたが、その昔「日本橋」から「築地」に移されたときも「築地?なんだか不味そうだな〜」って意見が大半だったらしいと獅子文六先生の本に書いてあった。

そうやって世の中は移ろっているのだ。今の当たり前がずっとの当たり前ではない。そんなことはわかっている。でも、足掻きたいのだ、なんだか流されるのはイヤなのだ。何かの、誰かの言いなりになるのはゴメンこうむりたいのだ。

人はこれを「老害」と揶揄するかもだが、そんなことは知らん。少しは頑固に生きてみたいのだ。頑固のイメージってあまりよくないかもだけど、質の良い「頑固」ってのもきっとあるはずだ。

わからずやのオッサンにはなりたくないが、物わかりのいいオッサンにもなりたくない。こういう気持ちわかるでしょう?

答えはきっと奥の方。心のずっと奥の方だ。涙はそこからやってくる。

春なのに

私が可愛がっているモミジシシガシラに新芽が出始めた。
息子が可愛がっているヒガシニホントカゲのトカボンドも頻繁に虫かごに積まれた腐葉土から出てくるようになって来た。
これはもう多分きっと春だ。

春に違いない。

春になったら、確定申告も提出し終えて、そしたらアナログレコードを自分で作れる「大人の科学マガジン トイ・レコードメーカー」でレコード作るんだぜと息巻いていたのだが、全然まだまだ作れていない。作る気が起きない。

春になったら、プラモデル(BANDAI 1/48スケール メガサイズ ザク) を作り始めるんだぜと密かにエキサイトしていたのだが、全然まだまだ作れていない。箱を開ける気すら起きない。

春になったら、またまたマウンテンバイクに跨って彼方此方を疾走するんだぜと正月から縄跳びして基礎体力作りに励んでいたのだが、全然まだまだ走れていない。縄跳びは続けている。おかげで体力はだいぶついた気がする。あまり疲れなくなったような、そんな気がしないでもない。痩せたとは誰にも言われないし、実際に痩せてない。

春なのにだ。春なのに、アイツのせいで春を感じられていない。どうにもスッキリしない。ちょっと体調悪いなと感じたら「もしやアイツが……」と一瞬頭を過るってしまうことにストレスを感じてしょうがない。外出時にはマスクをしないといけない。仕事中もしなくちゃならない。なのに、マスクは売っていない。一日に何度もプシュプシュとポンプを押して手指を消毒しなくてならない。

春なのに春なのに

ため息またひとつだぜ、ロックンロール。

止まらない

さて、こんな日々を過ごす中。

今起きている問題が収束した後に「あのときアイツはああだったよな……」と後々感心されるような立ち居振る舞いとはどんなものだろうか……いかに!と暇を見つけては思案しているのです。

なんか出て来ちゃいますよね、本来の自分が。強いとこ、弱いとこが滲み出て来ちゃうのを感じます。

いつかココ・シャネルさんが言ってたじゃないですか。

「二十歳の顔は自然の贈り物、五十歳の顔はあなたの功績なのよ……」って。

私も順調に行けば、来年五十歳になるわけで、そうなるともう今の自分の顔はほぼ「功績」なわけですよ。

確かビートたけしさんも言ってましたよ。

「ひとつの行動に生き様が出るのだよ、コマネチ!」って。

私も言い訳ができない年齢にいつの間にかなっていました。ホントいつの間にかですよ。困ったもんですよ。光陰ちゃんの矢の如しっぷりには。

これから何がどうなるのか分かりませんが、ひとつ気をつけたいと思っているのが「止まらない」ようにすること。私はこれをいろいろなことに当てはめて考えているのですが、その中でもとりわけ重要視しているのが「思考」ですかね。これは止めないよう気張ってます。

さてと。プラモデルでも作り始めるかな。

あ、光風&GREEN MASSIVE って強烈にカッコいいですね。こうやって、イイ音楽にめぐり逢えているのも好奇心を止めてないからなのだろう。

ともかく止まるな。とりあえず動かそう。

マスクの下では微笑んでいるよ

東洋人は表情を目元で作り、西洋人はそれを口元で作る。

だから、西洋人はマスクをつけることを嫌がり、東洋人はそれほどの抵抗を感じない……なんつーことをテレビが言っていた。

何故だか私も近頃マスクを着用していることが多くなったのだが、出先で知っている方に遭遇したとき「はたして先方は自分のことを認識出来るのだろうか……」と一抹の不安が過り、挨拶をしても「は?」と怪訝な顔をされたらどうしよう……なんて数秒考えたのちに挨拶もせずに華麗にスルーしてしまうことがあるのだが、実はバレバレだったりするのだろうか。
こう見えて、私はマスクの中でいつも微笑んでいるのだが、はたしてそれは皆さんに伝わっているのだろうか。

当たり前のことだが、iPhone の顔認証もされなくて、これまためんどくさい。

新型コロナのせいで余計な手間や気まで使うようになった。甚だ迷惑である。

イベントも片っ端から、中止もしくは延期となっている。明日開催予定で、ものすごく楽しみにしていた「Record Store Day」も六月に延期になった。(2008年に始まった毎年4月と11月にレコードストアの文化を祝うために開催される素敵なイベント。レア盤の再発や、レコード化を待望されたアルバムがリリースされるからヨダレが止まらないのである)

通販で売ってしまえば売れるのだが、このイベントはレコード屋に足を運んでもらうっつーことがキモなのだ。そうなるともう現状では開催は無理なわけで、それはもう仕方がないのだが、近頃「仕方ない」や「しょうがない」が我が物顔で闊歩してて、なんだかそれが悔しい。

後ろ向きの「しょうがない」はいやだ。出来ることなら前向きな「しょうがない」でヨロシク願いたい。こういう鬱屈した状況が長く続くと、どうも私は軽薄で思慮の浅い行動に出がちになってしまって、その度に妻さんに咎められる。耳を傾けると冷静沈着で的確な意見ばかりだから感嘆させられる。妻さんの言うことを聞いておけば、まず大丈夫だな。